国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
重要有形民俗文化財
主情報
名称
:
清瀬のうちおり
ふりがな
:
きよせのうちおり
清瀬のうちおり
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員数
:
469点
種別
:
衣食住に用いられるもの
年代
:
その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
232
指定年月日
:
2017.03.03(平成29.03.03)
追加年月日
:
指定基準1
:
(一)衣食住に用いられるもの 例えば、衣服、装身具、飲食用具、光熱用具、家具調度、住居等
指定基準2
:
(二)時代的特色を示すもの
指定基準3
:
(三)地域的特色を示すもの
所在都道府県
:
東京都
所在地
:
東京都清瀬市上清戸2-6-41
保管施設の名称
:
清瀬市郷土博物館
所有者名
:
清瀬市
管理団体・管理責任者名
:
清瀬のうちおり
解説文:
詳細解説
本件は,東京都の清瀬市域で使用された「うちおり」と呼ばれる自家用の衣類の収集である。「うちおり」とは,農家の女性たちが家族や自分のために,売り物にならない屑繭や賃機の残糸など身近に手に入る材料で織った布や仕立てた着物のことである。絹と綿を主な素材とし,明治時代初期から昭和20年代までの間に織られ,日常生活において使われていたもので,普段着や晴着として着用された長着を中心に,羽織,半纏,チャンチャンコ,短着,襦袢,腰巻,帯などのほか,手袋,足袋,風呂敷や袋などの小物類,衣類の繕いに用いた裂,原料の糸などが収集されている。 織りは平織,織柄は縞と絣が多く,布地は紬や太織,縮緬,壁縮緬,斜子,絹綿交織など多様である。手袋や足袋,小物類などは,着古された衣類の布地を再利用して作られており,裂とともに「うちおり」が最後まで大切に使われていたことを示す資料である。
関連情報
(情報の有無)
附
なし
添付ファイル
なし
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清瀬のうちおり
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清瀬のうちおり
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解説文
本件は,東京都の清瀬市域で使用された「うちおり」と呼ばれる自家用の衣類の収集である。「うちおり」とは,農家の女性たちが家族や自分のために,売り物にならない屑繭や賃機の残糸など身近に手に入る材料で織った布や仕立てた着物のことである。絹と綿を主な素材とし,明治時代初期から昭和20年代までの間に織られ,日常生活において使われていたもので,普段着や晴着として着用された長着を中心に,羽織,半纏,チャンチャンコ,短着,襦袢,腰巻,帯などのほか,手袋,足袋,風呂敷や袋などの小物類,衣類の繕いに用いた裂,原料の糸などが収集されている。 織りは平織,織柄は縞と絣が多く,布地は紬や太織,縮緬,壁縮緬,斜子,絹綿交織など多様である。手袋や足袋,小物類などは,着古された衣類の布地を再利用して作られており,裂とともに「うちおり」が最後まで大切に使われていたことを示す資料である。
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詳細解説
清瀬のうちおりは、東京都清瀬市において、日常生活に使用された「うちおり」と呼ばれる自家用の衣類の収集である。 清瀬市は、武蔵野台地東北端の平野部に位置し、東京都西側の多摩地域のなかでも北多摩と呼ばれる地域に属する。市域には、古くからの集落として、柳瀬川流域に開けた下宿、中里、野塩と、台地上にある上清戸、中清戸、下清戸の六つの地区があり、昭和以降、大型病院の相次ぐ開設や宅地開発が進み、清瀬は医療の街として知られるようになるが、それ以前は純農村であり、生業は畑作を中心とする農業であった。また、北多摩郡の他の村々と同じく、農業の副業として養蚕や機織りも盛んに行われていた。「うちおり」は、こうした地域性を背景に、農家の女性たちが忙しい農作業や賃機と呼ばれる機織り、家事、子育ての合間に身近に手に入る材料を用いて、家族や自分のために織った布や衣類のことである。清瀬では、昭和十年代になると洋服が普及しはじめ、着物中心の生活からの変化が進むとともに、都市近郊型の農業経営への移行によって桑畑は消え、織物生産も終焉に向かうが、昭和初期までは、どの家でも機を織り、着物を仕立てあげることは女性の大切な仕事であった。 本資料は、市内の小学校における昔の着物の展示活用を契機に、平成十六年から市民の有志と清瀬市郷土博物館が収集、整理を進めてきたもので、現在は同館に保管されている。収集された資料は、明治初期から昭和二十年代にかけて織られ、実際の生活で使用されてきたもので、特定の家の衣類ではなく、前記の六つの地区を網羅する市域の広い範囲から丹念に収集されており、製作者や製作時期、着用者の性別や年齢などが明らかなものが多い。また、近隣地域からの嫁入り時に持参された「うちおり」も含まれている。なお、「うちおり」という呼称については、その発生は定かではないが、「家」や「内」を意識した呼称であり、自家用として家で織ったものと機屋などで商品として織られたもの、購入したものを区別するための呼び分けから使われるようになったと考えられる。 収集された「うちおり」は、長着と呼ばれる着物類を中心に、羽織、道行、半纏、チャンチャンコ、短着、襦袢、腰巻、帯、モンペ、股引、夜具、手袋、足袋、風呂敷、袋類、紐類、子供のおむつなどがあり、このほかに反物や原材料の糸類、織りの最後の部分となる織じまい、布の端切れである裂なども収集されている。 長着は、普段着や晴着として着用された丈の長い着物で、夏には裏地のない単物、秋から春にかけては裏地を付けた袷、厳冬期には綿入れが用いられた。晴着は、祝着とも称され、裾模様の婚礼衣装や黒紋付、女児の帯ときや男児の七五三の着物などがある。羽織は、長着の上に着られた上着で、外出時のよそゆきの羽織や日常的に使われた身丈が腰までの短い茶羽織があり、また、外出用の防寒、防雨の外套として道行が使われた。半纏は、普段着の上に防寒のために着用され、子供を背負うときに着た綿入れのネンネコバンテン、捩り袖のムキミヤバンテンなどもある。同じく防寒用の衣類として、袖なしのチャンチャンコがあり、主に子供や老人が着用した。短着は、丈が腰のあたりまでの短い着物で、モンペや股引と組み合わせて着用され、普段着、仕事着として使用された。襦袢は、和服用の下着で、長襦袢と半襦袢がある。また、夜具としての衣類に掻巻(かいまき)があり、広袖の長着に綿を厚く入れたもので、冬季の就寝時に掛布団のように用いられた。 「うちおり」に使われた主な原材料は、絹と木綿である。清瀬では、養蚕や製糸をはじめ、近世後期に現在の武蔵村山市周辺地域で興った村山絣の賃機が明治以降盛んに行われていたことから、売り物にならない屑繭や玉繭から引いた絹糸、村山絣の木綿の残糸を手に入れることができた。「うちおり」は、これらの糸を用いて、そのほとんどが高機で織られている。織りは、単純な平織が多いが、綾織やその変化型もみられる。織地は、平絹をはじめ、紬や太織、縮緬、壁縮緬、斜子、絣、絹綿交織など多様で、手持ちの糸を巧みに組み合わせて織りあげられており、商品として織られた規格品とは異なり、織り手である当地の女性たちの工夫が読み取れる。柄は、縞と無地が多い。縞は、明治時代から大正時代中頃までのものは、藍を主体とした植物染料で染めた糸で織られており、藍を染め分けた青系、草木を原料とした茶系、山繭から採取した黄系、染めていない生成りの糸を上手に使った細縞が多く、その後、大正末期になり、化学染料が普及すると糸の色数も増え、その並べ方を工夫したより個性的で色鮮やかな縞がみられるようになる。このほかに、狭山丘陵周辺で生産され、明治三十年代後半に流行した所沢飛白と呼ばれる絣紋様や、紺屋に頼んで白生地に柄を染めた型染もある。 「うちおり」は、親から子、孫へと受け継がれる過程で様々な形になることも少なくなかった。仕立てた着物が古くなると布に戻して洗い張りし、繕い直したり、着物の裏地や他の製品に作り変えられた。また、着用に耐えなくなった着物は、使える部分だけを端切れとして大事に取っておき、小物作りや継ぎ宛て用の布となった。こうした布の再利用を示す資料に、足袋や手袋、風呂敷、袋類、紐類、子供用のおむつがあり、各種の裂も収集されている。「うちおり」はこうした過程を経て、その役割を終えると、最後は堆肥場で燃やされて灰にし、畑の肥料として使用された。