国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
重要有形民俗文化財
主情報
名称
:
志木の田子山富士塚
ふりがな
:
しきのたごやまふじづか
◎御胎内の内部
写真一覧▶
解説表示▶
員数
:
1基
種別
:
信仰に用いられるもの
年代
:
その他参考となるべき事項
:
内訳:富士塚1基
指定番号
:
264
指定年月日
:
2020.03.16(令和2.03.16)
追加年月日
:
指定基準1
:
(六)信仰に用いられるもの 例えば、祭祀(し)具、法会具、奉納物、偶像類、呪(じゆ)術用具、社祠(し)等
指定基準2
:
指定基準3
:
所在都道府県
:
埼玉県
所在地
:
保管施設の名称
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
田子山富士保存会
◎御胎内の内部
解説文:
詳細解説
本件は、埼玉県志木市の敷島神社の境内にある「富士塚」と呼ばれる富士山を模した人工の築山である。富士塚は、近世中期以降、富士山を御神体とする富士信仰が盛んになると江戸とその周辺地域を中心に造られ、身近な富士山として信仰されてきた。田子山富士塚は、富士講の一派の丸吉講の講員で、当地で醤油醸造業を営んでいた高須庄吉が築造を発願し、明治5年(1872)に完成している。塚の大きさは、高さ約8.7m、直径約30mと富士塚の中では大型で、塚の東側に入口、北斜面に登山道があり、表面は溶岩の黒ボク石で覆われている。入口に里宮の浅間下社、頂上に奥宮が祀られ、一合目から頂上までの登山道には、富士山にある神社や名所に倣った石造物が数多く建つ。また、塚の内部には,御胎内と呼ばれる洞穴もある。塚の管理は、田子山富士保存会が行っており、毎年7、8月には山開き・山仕舞いの行事が行われている。
関連情報
(情報の有無)
附
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
◎御胎内の内部
◎御胎内の入口
◎頂上の奥宮
◎田子山富士塚全景(南面)
〇烏帽子岩碑
〇猿座像
〇経ヶ嶽題目碑
〇山開きの行事
〇浅間下社と塚(東面)
写真一覧
◎御胎内の内部
写真一覧
◎御胎内の入口
写真一覧
◎頂上の奥宮
写真一覧
◎田子山富士塚全景(南面)
写真一覧
〇烏帽子岩碑
写真一覧
〇猿座像
写真一覧
〇経ヶ嶽題目碑
写真一覧
〇山開きの行事
写真一覧
〇浅間下社と塚(東面)
解説文
本件は、埼玉県志木市の敷島神社の境内にある「富士塚」と呼ばれる富士山を模した人工の築山である。富士塚は、近世中期以降、富士山を御神体とする富士信仰が盛んになると江戸とその周辺地域を中心に造られ、身近な富士山として信仰されてきた。田子山富士塚は、富士講の一派の丸吉講の講員で、当地で醤油醸造業を営んでいた高須庄吉が築造を発願し、明治5年(1872)に完成している。塚の大きさは、高さ約8.7m、直径約30mと富士塚の中では大型で、塚の東側に入口、北斜面に登山道があり、表面は溶岩の黒ボク石で覆われている。入口に里宮の浅間下社、頂上に奥宮が祀られ、一合目から頂上までの登山道には、富士山にある神社や名所に倣った石造物が数多く建つ。また、塚の内部には,御胎内と呼ばれる洞穴もある。塚の管理は、田子山富士保存会が行っており、毎年7、8月には山開き・山仕舞いの行事が行われている。
詳細解説▶
詳細解説
志木の田子山富士塚は、埼玉県志木市の敷島神社の境内にある、「富士塚」と呼ばれる富士山を模した人工の築山である。富士塚は、近世中期以降、富士山を御神体とする富士信仰が盛んになるなかで、江戸とその周辺地域を中心に富士講の人々によって社寺の境内などに造られ、富士への登拝が容易でなかった庶民の間で身近な富士山として信仰されてきた。本件は、塚のある字名から「田子山富士塚」と称されており、地元では「志木のお富士さん」の名でも親しまれている。 志木市は、埼玉県の東南部、新河岸川の西岸に位置する。近世には、新河岸川に設けられた引又河岸の舟運で栄えるとともに、奥州街道の脇往還の宿場があり、定期市も立つなど商業地として繁栄した。近代以後は、東武東上線の開通や大規模なニュータウンの建設が進み、主に首都圏の住宅地として発展してきている。 富士塚のある敷島神社は、新河岸川の南、市域のなかでも標高の高い武蔵野台地上にある。敷島神社は、明治41年(1908)に富士塚とともにあった浅間神社に、村山稲荷神社、星野稲荷神社、水神社の三社を合祀し、志木町の鎮守として創建された社で、木花開耶姫命を主祭神として祀る。田子山富士塚は、この敷島神社が所有し、塚の管理や整備、公開や行事の運営などは、神社の氏子総代や本町地区の有志を中心に組織されている田子山富士保存会が行っている。 田子山富士塚は、現在の埼玉県新座市周辺で活動していた富士講の一派の丸吉講の講員で、当地で醤油醸造業を営んでいた高須庄吉が築造を発願し、明治2年(1869)に着工、明治5年(1872)に完成している。その間に高須は、富士太々講を新たに結成するとともに、浅間神社の神職としても活動している。築造にあたっては、富士信仰の同志だけでなく、河岸問屋などの舟運関係者、地元の商家や職人、農民などから多くの寄進や労力奉仕があり、塚上の石造物や玉垣に寄進者の氏名や奉納地域が刻まれている。その数は、約2,400名で志木とその周辺地域を中心に東北地方から中部地方に及んでおり、寄進者のなかには有名な歌舞伎役者も含まれる。また、塚の築造年代は明治初期であるが、文化11年(1814)の『引又宿古絵図』には「田子山塚」と書かれた塚が描かれており、富士塚の原型は近世にあったものと考えられている。 塚の大きさは、高さ約8.7m、直径約30mと富士塚の中では大型である。形状は、丸みのあるやや方形型の塚で、敷島神社の参道の正面、境内地の北西部分に位置する。塚の東側に入口があり、そこから北側にまわり込むように登山道が造られていて、北斜面で富士山と同様に電光形のつづら折りの道となり、頂上に至る。塚の入口には里宮の浅間下社、頂上には奥宮が祀られ、中腹には富士山の5合目付近を一周する修行に使われた御中道もある。塚の表面は、富士山から運んできた溶岩の黒ボク石で覆われ、それらの合間に低層の植栽がみられる。浅間下社は、明治2年の築造時に造られた石祠で、玉垣と台座を持ち、右側面に木花開耶姫命、左側面に富士行者で富士講中興の祖とされる食行身禄、背面に白糸の滝が浮彫りされている。奥宮は、塚が完成した明治5年に造立された石祠で、木花開耶姫命を祀る。この奥宮が建つ塚の頂上部は平坦になっており、遠く富士山を遥拝することができる。 石造物は、数が多く、塚の全面にわたってみられる。特に北斜面は、山梨県富士吉田市の吉田口登山道に忠実に造られていて、登山道に沿って道標の合目石があり、浅間下社から1合目までの間には、登山道の入口を記す標石をはじめ、猿像や天狗像、不動明王像などが祀られ、1合目から上は、一ノ岳鈴原神社碑、小室浅間大社碑、御座石祠、経ヶ嶽題目碑、不二森稲荷神社碑、中宮祠、泉ヶ瀧碑、小御嶽神社碑、烏帽子岩碑など富士信仰に関する碑や祠が順次建てられている。頂上部には、奥宮のほかに、黒ボク石による剣ヶ峰、陰陽石がある。南斜面には、宝永4年(1707)の大噴火によってできた宝永山の碑、御中道大願成就碑などの登頂記念碑、田子山峯縁起碑や御山大願成就碑など塚の築造に関する碑、和歌や金銭の寄進などを記した奉納碑、塚の修築記念碑などが建つ。西斜面には、頂上付近に釈迦割石、中腹に京都府にある松尾神社の石祠や酒造関係の石造物がある。後者の石造物群は、舟運によって繁盛した志木の醸造業者が奉納したもので、田子山富士塚の地域性を示している。また、西側の麓には、静岡県富士宮市側の登山口である村山口も造られており、北斜面の吉田口と対応している。 また、田子山富士塚は、塚の内部に御胎内と呼ばれる洞穴を持つ。御胎内は、塚の北西面の麓に入口があり、山体下の関東ローム層を掘り抜いて造られていて、16.2mの奥行きがある。富士山麓には胎内と呼ばれ、生まれ変わりや安産の信仰を持つ溶岩洞穴があるが、それを模したもので、当地で山梨県富士河口湖町にある船津胎内との関係が伝承されている。 なお、田子山富士塚では、富士山に準じて毎年7月初旬に山開き、8月21日に山仕舞いの行事を行っている。この両日と正月元旦から3日までの年始は一般の入山が許され、近年は、田子山富士保存会によって毎月大安、友引の日にも公開している。