重要無形民俗文化財
 主情報
名称 松尾寺の仏舞
ふりがな まつのうでらのほとけまい
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種別1 民俗芸能
種別2 渡来芸・舞台芸
その他参考となるべき事項
指定証書番号
指定年月日 2004.02.06(平成16.02.06)
追加年月日
指定基準1
指定基準2
指定基準3
所在都道府県、地域 京都府
所在地
保護団体名 松尾寺仏舞保存会

解説文:
 松尾寺の仏舞は、仏の面をかぶった六人の舞手が、篳篥や龍笛など雅楽器の演奏にのせて舞うもので、今は行われなくなった舞楽の一演目をうかがわせるものである。
 京都府と福井県の境に、俗に若狭富士【わかさふじ】と呼ばれる青葉山【あおばやま】がある。その山の京都府側の中腹に松尾寺がある。同寺は八世紀初めの創建で、平安時代末期には観音霊場として信仰され、後に西国三十三所【さいごくさんじゅうさんしょ】観音霊場の第二十九番札所【ふだしょ】とされ、今も多くの参詣人を集めている。仏舞は、松尾寺の本堂の中で、毎年五月八日に披露されている。
 同寺本堂の内部は、正面約一五・三メートル、奥行き約一三・四メートルで、後方の約八・二メートルが、中央に須弥壇が置かれた内陣で、その手前側が参詣人が立ち入る場所になっている。内陣部分は手前側より五〇センチメートルほど高い。手前側の、右手前奥の壁際一隅に内陣と同様に一段高くなった場所がある。正面約二・五メートル、奥行き約二・八メートルで、内陣とは離れていて、その間は通路になっている。高くなった場所は、通常は寺の関係者が詰めていて、参詣人の求めに応じて朱印を押したり寺号などを記入したりしている。仏舞の公開当日になると、その一段高い場所を仏舞の舞台にするため、机などを片付けて、うすべりを敷く。通路部分には、内陣との間に板を渡し、その上に緋毛氈【ひもうせん】を敷いて楽人が座る場所にする。正面の須弥壇の向かって左側を白幕で仕切って、その奥を舞人が仏面を着け身支度をする場所にする。仏面は、舞人の顔の全面を覆うもので、頭には、光背を付けた宝冠をかぶる。六人の舞人のうち、二人は腰に鞨鼓を付け、両手にそれぞればちを持ち、二人は右手に振鼓【ふりつづみ】、左手にばちを持つ。舞人は、薄く青みがかった白い上衣に袴を着け、両手に手袋をして、左肩から袈裟をかける。
 仏面を着けた六人の舞人や楽人などが、須弥壇の前を行列して舞台に向かい、舞人は三人ずつの二列に並ぶ。緋毛氈を敷いた所には、一人ずつの楽太鼓、鞨鼓、篳篥の演奏者と三人の龍笛の演奏者の計六人の楽人が席に着く。楽太鼓の一打で仏舞が始まる。舞は、三人二列に並んだ舞人が、互いに内向きになっての舞、外向きになっての舞、六人が回りながら互いに居場所を入れ替わる舞がある。入れ替わる舞のときには、両手に何も持っていない舞人は、両手の指で阿弥陀如来や釈迦如来などの印【いん】を結ぶ。これらが繰り返されて、最後に入場のときと同じように列を作って退場して仏舞が終わる。
 この仏舞は、地元では六〇〇年ほど前に始まったと伝える。仏面の箱に書かれた享保十年(一七二五)の銘文や享保二十年(一七三五)、また宝暦十一年(一七六一)から天保十二年(一八四一)にかけて書かれた記録によって、一八世紀には、四月八日の仏誕会【ぶったんえ】に仏舞が行われていたことが確かめられる。現在、松尾寺では、毎年五月八日に仏誕会いわゆる花祭を行い、そのときに仏舞が演じられているが、四月から五月になったのは明治以降といわれている。
 六人の仏は、同様に一八世紀の寺の記録によると、二体ずつの釈迦如来、大日如来、阿弥陀如来で、両手にばちを持つ仏が釈迦、振鼓とばちを持つ仏が大日、何も持たない仏が阿弥陀であるとされる。また音楽は、越天楽や五常楽とされるが、それらは現在の雅楽の同名曲とは異なっている。
 現在、この仏舞は、松尾地区を中心に周辺地域の人びとも参加して伝承・公開されているが、昭和四十年代ころまで、それぞれの仏や楽器ごとに伝承する家筋が決まっていて、まず、その家の長男に、また跡取りがいない場合は兄から弟に限って厳密に伝えられてきた。
 なお仏舞は、古代にインドから伝わった舞楽の「菩薩」と呼ばれた曲目に基づくものと考えられる。現在、「菩薩」は曲の一部が残るが、舞が、どのようなものであったか明らかではない。
関連情報
    (情報の有無)
  添付ファイル なし