国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
重要無形民俗文化財
主情報
名称
:
吉田の火祭
ふりがな
:
よしだのひまつり
吉田の火祭
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種別1
:
風俗慣習
種別2
:
祭礼(信仰)
その他参考となるべき事項
:
公開日:毎年8月26・27日(※指定当時・お出掛けの際は該当する市町村教育委員会などにご確認ください)
※この行事は、平成12年12月25日に吉田の火祭として記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選択されている。
指定証書番号
:
459
指定年月日
:
2012.03.08(平成24.03.08)
追加年月日
:
指定基準1
:
(一)由来、内容等において我が国民の基盤的な生活文化の特色を示すもので典型的なもの
指定基準2
:
指定基準3
:
所在都道府県、地域
:
山梨県
所在地
:
保護団体名
:
吉田の火祭保存会
吉田の火祭
解説文:
詳細解説
本件は、富士吉田市上吉田にある北口本宮冨士浅間神社とその摂社の諏訪神社の祭りで、富士信仰の隆盛とともに伝承されてきた火祭りである。7月1日のお山開きに対するお山仕舞いの祭りであり、巨大な富士山型の神輿が勇壮に渡御し、26日夜には、市中に並び立てられた80本ほどの大松明が盛大に燃やされる。大松明に点火されると、富士山の山小屋でも火が焚かれ、山と町とが一体となって火祭りが繰り広げられる。また、関東一円から訪れる富士講の人たちも参加し、宿坊の入口や大松明を囲んで講の行事を行う。
(※解説は指定当時のものをもとにしています)
関連情報
(情報の有無)
添付ファイル
なし
写真一覧
吉田の火祭
吉田の火祭
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吉田の火祭
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吉田の火祭
解説文
本件は、富士吉田市上吉田にある北口本宮冨士浅間神社とその摂社の諏訪神社の祭りで、富士信仰の隆盛とともに伝承されてきた火祭りである。7月1日のお山開きに対するお山仕舞いの祭りであり、巨大な富士山型の神輿が勇壮に渡御し、26日夜には、市中に並び立てられた80本ほどの大松明が盛大に燃やされる。大松明に点火されると、富士山の山小屋でも火が焚かれ、山と町とが一体となって火祭りが繰り広げられる。また、関東一円から訪れる富士講の人たちも参加し、宿坊の入口や大松明を囲んで講の行事を行う。 (※解説は指定当時のものをもとにしています)
詳細解説▶
詳細解説
吉田の火祭は、山梨県富士吉田市上吉田にある北口本宮冨士浅間神社とその摂社である諏訪神社の祭りで、 富士信仰の隆盛とともに伝承されてきた火祭りである。7月1日の富士山のお山開きに対するお山仕舞いの祭りであり、8月26日夜には、市中に立てられた数多くの大きな松明が燃やされることから、吉田の火祭の名で知られている。 富士吉田市は、山梨県の東南部、富士山の北麓に位置する。火祭りが伝承される上吉田は、富士山に登拝する人たちに宿坊を提供し、信仰の仲立ちをした御師たちが集住することによって形成された町である。富士山を遙拝できる、金鳥居のある表通りを中心に南北に細長い町並がみられ、浅間神社の門前から北に向けて、下宿、中宿、上宿、中曽根の4つの町内に分かれている。 浅間神社は、上吉田の南に広がる諏訪森と呼ばれる境内に富士山を背にして鎮座し、諏訪神社は、その摂社として境内に祀られている。文化11(1814)年に編纂された『甲斐国志』には、「諏方明神上吉田村 本村ノ土神ナリ・・・例祭ハ七月廿二日 神輿ハ冨士山ノ御影・・・其ノ夜此屋皆篝松ヲ焼ク」とあるように、火祭りは上吉田村の産土神であった諏訪神社の例祭であったが、富士信仰が盛んになるにつれて、浅間神社の社域が拡大して諏訪神社を取り込み、浅間神社が氏神、諏訪神社はその境内社となり、現在は両社の祭りとして伝承されている。 祭日は、旧暦7月21日、22日であったが、大正3年以降、現行の新暦の期日で行っている。 祭りの準備や運営は、祭典世話人と呼ばれる14名の氏子を中心に行われる。世話人になれるのは、42歳の厄年前の既婚の男性に限られており、上宿から4名、中宿から4名、下宿と中曽根から3名ずつ選ぶことが原則となっている。世話人は、祭りの1か月前から精進潔斎の生活に入り、一切の不浄を避け、祭りの2日間は、必ず火打石で切り火をしてから家を出る。また、前年の世話人は、旧世話や後役などと呼ばれ、当年の世話人の指導や補佐役をつとめる。祭りの準備は、8月に入ると本格的に動き出し、祭り全体の協議や松明作りがはじまる。 火祭りに用いられる松明は、ユイタイマツ(結松明)とイゲタタイマツ(井桁松明)の2種類がある。ユイタイマツは、高さが3㍍強、下部の直径が約1㍍の円筒形の松明で、中宿に設けられた御旅所(上吉田コミュニティセンター)と表通りに立てられる。ユイタイマツは、火祭りまでに市内の松山地区の職人を中心に製作され、ヒノキの丸太を芯とし、薪と呼ばれるアカマツ材を差し重ねていき、周囲を経木と呼ばれる檜の皮で囲み、荒縄で巻いて結い上げられる。松明の上部には、点火材として、ヤニ木と呼ばれる、樹脂を多く含んだアカマツの根材が使用される。イゲタタイマツは、宿坊や各家が門前で燃やす松明のことで、祭りの当日に、アカマツの薪を井桁状に約1.5㍍ほど積み上げて作られる。松明の材料となるアカマツの調達に際しても不浄は忌避され、不幸のあった山林所有者の山からは切り出さないなど、慎重に材料選びが行われる。 初日の26日は、夕方より、赤富士を象ったオヤマサン(御山さん)、あるいはミカゲ(御影)と呼ばれる、重量約1㌧の巨大な富士山型の神輿と諏訪神社の神輿が神社を出発し、氏子域を渡御する。そして、2つの神輿が中宿の御旅所に納まると、御旅所前に立つ2本のユイタイマツに点火され、それを合図に表通りに立ち並ぶ松明に次々と火が入れられる。松明は、御師や富士講によって奉納されてきたが、現在は地域の企業や商店が主な奉納者であり、例年80本以上が奉納されている。 一方、表通りの御師の宿坊や沿道の家々では、門前の路上に積み上げたイゲタタイマツに火を点ける。夜の訪れとともに、上宿から中曽根までの表通りには帯状の火の海があらわれ、氏子や観衆たちは、火の粉をあびながら松明の下を通り抜ける。こうして松明が赤々と燃えてくると、それに呼応して、富士山の五合目から八合目にある山小屋でも火が焚かれる。登山道に沿って列状に並ぶ火は、山麓からも眺めることができ、山と町とが一体となっての火祭りとなる。 また、吉田の火祭は、富士山を信仰し、組織的に参詣する富士講の人たちが参加する祭りでもある。宿坊の入り口などでは、東京や千葉、埼玉などから訪れた富士講の人々が行衣に身を固め、それぞれに先達を中心に燃えさかる松明の前で、お伝えと呼ばれる教典を読み上げるなどの講の行事を行う。 翌日の27日は、午後、御旅所から2つの神輿が出て氏子域を巡行し、夜に神社へ還御する。神社の境内では、神輿が高天原と呼ばれる祭場を回るが、このときにススキを持った参詣者たちが神輿の後ろについて一緒に回る。とくに市内外の女性たちが安産や子育てを祈願して大勢参加する。 上吉田では、火祭りの際には清浄であることが強く求められる。とくに死の穢れを忌む慣習が強くみられる。前年の祭りから一年の間に不幸のあった家はアラブク(新服)と呼ばれ、その家の者は、「火祭りから逃げる」といって、火や神輿を見ることを避けねばならない。祭りの期間中は、クイコミといって家の戸を閉めて謹慎して過ごしたり、「テマ(手間)に出る」といって町外の親戚の家に逃れたりすることが行われてきており、穢れに対する禁忌が厳格に守られながら火祭りが伝承されている。 我が国の山岳信仰を代表する富士信仰を背景に伝承されてきた祭りであり、数多くの大きな松明を勇壮に燃やす大規模な火祭りとして全国的にも注目される事例である。富士信仰に因む火祭りは、山梨県甲州市下岩崎にある浅間神社の火祭や県東部の郡内地方における火焚き行事をはじめ、関東地方に伝承がみられるが、吉田の火祭からの伝播やその影響を受けている事例が多く、同種の火祭りの典型例と考えられる。 また、上吉田の氏子だけでなく、関東地方を中心に活動する富士講の人たちも参加する祭りであり、富士山に対する信仰の広がりを知るうえで貴重であるとともに、火に関する禁忌が厳格に守られているなど、我が国の山岳信仰や火に関する祭りを理解するうえで重要である。 (※解説は指定当時のものをもとにしています)