国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
重要無形民俗文化財
主情報
名称
:
高原の神舞
ふりがな
:
たかはるのかんめ
解説表示▶
種別1
:
民俗芸能
種別2
:
神楽
その他参考となるべき事項
:
公開日:【狭野】毎年12月第一土・日曜日、【祓川】毎年12月第二土・日曜日(指定当時・お出掛けの際は該当する市町村教育委員会などにご確認ください)
指定証書番号
:
指定年月日
:
2010.03.11(平成22.03.11)
追加年月日
:
指定基準1
:
(二)芸能の変遷の過程を示すもの
指定基準2
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(三)地域的特色を示すもの
指定基準3
:
所在都道府県、地域
:
宮崎県
所在地
:
保護団体名
:
狭野神楽保存会
祓川神楽保存会
解説文:
詳細解説
高原町の狭野地区と祓川地区それぞれに伝承される神楽で、地元で神舞と呼ばれる。両地区は地元で信仰対象となっていた高千穂峰【たかちほのみね】の東麓に位置する。同峰の周辺では信仰を背景に高い柱をかかげる神舞が各地で行われた。そのなかで高原の神舞は、江戸時代の早い頃には現在と同じように行われていたとされる。
ともに舞の場所に三本の高い柱を立て、その前に三間四方の広さに注連縄【しめなわ】で区画し、舞い手の出入りのために鳥居を設け、その中で二十数演目を夜を徹して舞う。仮面を付けずに手に剣や御幣などを持っての舞や仮面を付けて神に扮しての舞があるが、各演目とも基本的に舞が中心で、途中で静止して神歌を唱える。舞に演劇的な要素が少なく、剣を持っての舞では、刀の柄を持って舞ったあとに剣先に持ちかえて舞う。他の神楽のように刀を持って、ゆるやかに舞うのではなく、剣先を握りしめて振り回すなど勇壮である。
本件は、霧島連山に対する信仰を背景に、高い柱を立てて大規模に行われていた神舞の姿を現在も継承しているもので、特別な舞の場を設けることや、剣を持っての勇壮な舞などに特色があり、芸能の変遷過程や地域的特色を示し重要である。
(※解説は指定当時のものをもとにしています)
関連情報
(情報の有無)
添付ファイル
なし
解説文
高原町の狭野地区と祓川地区それぞれに伝承される神楽で、地元で神舞と呼ばれる。両地区は地元で信仰対象となっていた高千穂峰【たかちほのみね】の東麓に位置する。同峰の周辺では信仰を背景に高い柱をかかげる神舞が各地で行われた。そのなかで高原の神舞は、江戸時代の早い頃には現在と同じように行われていたとされる。 ともに舞の場所に三本の高い柱を立て、その前に三間四方の広さに注連縄【しめなわ】で区画し、舞い手の出入りのために鳥居を設け、その中で二十数演目を夜を徹して舞う。仮面を付けずに手に剣や御幣などを持っての舞や仮面を付けて神に扮しての舞があるが、各演目とも基本的に舞が中心で、途中で静止して神歌を唱える。舞に演劇的な要素が少なく、剣を持っての舞では、刀の柄を持って舞ったあとに剣先に持ちかえて舞う。他の神楽のように刀を持って、ゆるやかに舞うのではなく、剣先を握りしめて振り回すなど勇壮である。 本件は、霧島連山に対する信仰を背景に、高い柱を立てて大規模に行われていた神舞の姿を現在も継承しているもので、特別な舞の場を設けることや、剣を持っての勇壮な舞などに特色があり、芸能の変遷過程や地域的特色を示し重要である。 (※解説は指定当時のものをもとにしています)
詳細解説▶
詳細解説
高原の神舞は、宮崎県西諸県郡高原町の狭野地区と祓川地区それぞれに伝承される神楽で、地元で神舞と呼ばれる。霧島連山の信仰に関わる神楽である。ともに舞の場所に三本の高い柱を立て、その前を三間(約4.5m)四方の広さに注連縄で区画し、舞い手の出入りのために鳥居を設けて、その中で二十数演目を夜を徹して舞う。仮面を付けて神に扮する舞と仮面を付けない舞がある。神に扮する舞でも演劇的な要素が少なく、面を付けずに剣を持つ舞では、剣の柄を持つだけでなく剣先を握って激しく振り立てる所作など勇壮に舞われる。 高原町は、宮崎県の南西部、宮崎市の西方にあたり、霧島連山によって鹿児島県に接している。狭野地区と祓川地区は霧島連山のうち高千穂峰(たかちほのみね)の東麓に位置する。高千穂峰は、地元で霧島山とも呼ばれ、古代から江戸時代まで、たびたび噴火し、また秀麗な姿から信仰の対象となった。高原町は江戸時代には薩摩藩領で、狭野地区の狭野神社や祓川地区の霧島東神社は、鹿児島県霧島市の霧島神宮とともに島津氏が信仰し庇護した。霧島山の信仰をもとに周辺地域では、高い柱をかかげる神舞が各地で行われた。高原の神舞は、地元の記録などから、江戸時代の早いころには現在と同じように行われていたとされる。 狭野では、大正12年(1923)まで毎年旧暦9月16日から翌朝にかけて行っていたが、その後は11月末から12月初めの土曜になり、昭和52年から毎年12月第一土曜日から翌朝にかけて行うようになった。祓川では昭和30年初めまで毎年旧暦11月16日から翌朝に行っていたが、その後は毎年12月第二土曜日から翌朝にかけて行うようになった。 また舞の場所は、狭野では大正12年まで民家の庭で行ったが、その後、狭野地区公民館前の広場や近くの空き地で行い、平成11年以降は狭野神社の第二鳥居前の広場で行うようになった。ちなみに雨天時には公民館内で演じることになっている。祓川では昭和20年代ころまで同様に民家の庭で行い、その後は祓川公民館の庭で行ってきたが、ここ4、5年は天候や準備の都合で公民館内で披露されている。 舞の場所は狭野では舞庭(まいにわ)と呼び、祓川では御講屋(みこうや)と呼ぶ。狭野では、当日の朝から狭野神社の鳥居前の広場に御幣などで飾った高い三本の柱を立て、下部を木の枝で飾る。その前を注連縄で三間四方に区画し、中にムシロを敷き詰めて舞の場所を設ける。正面奥に神棚を飾り、神棚の反対側に舞い手が出入りする鳥居が立つ。神棚に向かって右手の外側が楽器演奏者の場所になる。祓川でも同様の舞の場を設ける。祓川では鳥居が四方に立てられ、楽器演奏者の場所は神棚の前にある。楽器はともに鋲留太鼓、篠笛で、狭野は伏鉦(ふせがね)、祓川は手平鉦で、また祓川の太鼓は胴が直径約60cm、厚みが約20cmの平太鼓で木枠に吊り下げている。両地区とも午後8時ころから舞が始まり、翌朝の7時過ぎまで続く。 高原の神舞は、仮面を付けずに手に剣や御幣を持っての舞や仮面を付けて神に扮しての舞があるが、各演目とも基本的に舞が中心で、途中で静止して神歌を唱える。演劇的な要素は少なく、たとえば後半に登場する天の磐戸(あまのいわと)神話にちなむ手力雄(たぢからお)神も、扇を持っての舞が主で、演劇的といえるのは、天の岩屋と書かれた紙を貼った板戸を投げる所作だけである。なお狭野と祓川の演目は、たとえば『地割(じわり)』『飛出(とっで)』『高幣(たかひ)』『金山(かなやま)』『長刀(なぎなた)』『住吉(すみよし)』『龍蔵(りゅうぞう)』など名称が共通している。また狭野の『踏劔(ふみつるぎ)』と祓川の『劔(つるぎ)』は名称が違うが、ともに2人の成人の舞い手に、後に1人の児童が加わり左右の成人が持つ剣の先端部を児童が握って舞うというものである。『神師(かんすい)』と『神随(かんすい)』、『臣下(しんか)』と『田の神(たのかん)』、『箕舞(みのまい)』と『杵舞(きねまい)』、『手力男(たぢからお)』と『太刀(たちから)』など名称が違っていても、その内容や所作など、ほぼ同じ演目である。なお祓川の『十二人劔(じゅうににんつるぎ)』は、12人の舞い手が、互いに隣の舞い手の剣先を握って大きな輪になり、移動しながらくぐり抜けたりするが、狭野の『花舞』は12人の児童が剣ではなく御幣のついた榊の枝を持って同様の所作をする。 高原の神舞で、剣を持っての舞では、刀の柄を持って舞ったあとに剣先に持ちかえて舞う。ほかの神楽のように刀を持って、ゆるやかに舞うのではなく、剣先を握りしめて振り回すなど勇壮である。 (※解説は指定当時のものをもとにしています)