国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
重要無形民俗文化財
主情報
名称
:
阿波晩茶の製造技術
ふりがな
:
あわばんちゃのせいぞうぎじゅつ
03阿波晩茶の製造技術_茶干し
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種別1
:
民俗技術
種別2
:
生産・生業
その他参考となるべき事項
:
指定証書番号
:
519
指定年月日
:
2021.03.11(令和3.03.11)
追加年月日
:
指定基準1
:
(三)地域的特色を示すもの
指定基準2
:
指定基準3
:
所在都道府県、地域
:
徳島県
所在地
:
徳島県勝浦郡上勝町、那賀郡那賀町、海部郡美波町
保護団体名
:
阿波晩茶の製造技術保存会
上勝町阿波晩茶の製造技術保存会、那賀町阿波晩茶の製造技術保存会、美波町阿波晩茶の製造技術保存会
03阿波晩茶の製造技術_茶干し
解説文:
詳細解説
阿波晩茶の製造技術は、徳島県勝浦郡上勝町、那賀郡那賀町、海部郡美波町などで、四国山地の標高数百メートルの山間地域に伝承されている発酵茶の製造技術である。阿波晩茶は、家ごとに自給中心に製造されてきた発酵茶である。日本茶の煎茶や番茶などの不発酵茶とは異なり、阿波晩茶は、熱処理を加えて茶葉の酸化発酵が生じないようにした上で、さらに漬け込んで新たな乳酸発酵を促す特徴がある。その名称で「晩茶」と表記されるように、遅い時期まで成長した夏季の茶葉を用いた特色ある製法である。阿波晩茶の製造は、7・8月の期間において、茶摘み、茶茹で、茶摺り、漬け込み、茶干し、選別の各工程からなる。摘み取った茶葉は、竈の大釜で茹でた後、発酵を促すために茶摺りをして茶葉の表面に傷をつける。気温が高い夏季に漬け込むことで、茶葉の発酵が促進される。漬け込んだ茶葉は天日干しをした後、手作業で選別して仕上げられる。
関連情報
(情報の有無)
添付ファイル
なし
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03阿波晩茶の製造技術_茶干し
03阿波晩茶の製造技術_茶茹で
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解説文
阿波晩茶の製造技術は、徳島県勝浦郡上勝町、那賀郡那賀町、海部郡美波町などで、四国山地の標高数百メートルの山間地域に伝承されている発酵茶の製造技術である。阿波晩茶は、家ごとに自給中心に製造されてきた発酵茶である。日本茶の煎茶や番茶などの不発酵茶とは異なり、阿波晩茶は、熱処理を加えて茶葉の酸化発酵が生じないようにした上で、さらに漬け込んで新たな乳酸発酵を促す特徴がある。その名称で「晩茶」と表記されるように、遅い時期まで成長した夏季の茶葉を用いた特色ある製法である。阿波晩茶の製造は、7・8月の期間において、茶摘み、茶茹で、茶摺り、漬け込み、茶干し、選別の各工程からなる。摘み取った茶葉は、竈の大釜で茹でた後、発酵を促すために茶摺りをして茶葉の表面に傷をつける。気温が高い夏季に漬け込むことで、茶葉の発酵が促進される。漬け込んだ茶葉は天日干しをした後、手作業で選別して仕上げられる。
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詳細解説
阿波晩茶の製造技術は、徳島県勝浦郡上勝町、那賀郡那賀町、海部郡美波町などで、四国山地の標高数百メートルの山間部の地域に伝承されている発酵茶の製造技術である。 上勝町・那賀町・美波町の一帯は、徳島県の中南部に位置する。この地域は、四国山地における標高1,955メートルの剣山を中心とした山間地で、急峻な谷に沿って那賀川や勝浦川が流れる。民家や農地の多くは山麓や谷間の急傾斜地に点在しており、この地形的制約によって畑作を基本とする農業が長く続けられてきた。また、西日本の広域にみられる照葉樹林帯に属し、山林には常緑樹である茶の木が多く自生する。 阿波晩茶は、ヤマチャと呼ばれる山地の茶の葉を用い、家ごとに自給中心に製造されてきた発酵茶である。日本茶の大部分は、煎茶、番茶などの緑茶の不発酵茶であり、それらは熱処理をして茶葉の発酵を抑制した茶である。一方の発酵茶は、多くが熱処理をしない自然発酵だが、なかでも阿波晩茶は、熱処理を加えて茶葉の酸化発酵が生じないようにした上で、さらに漬け込んで新たな乳酸発酵を促すという特徴がある。このように、阿波晩茶は熱処理後に発酵させることから「後発酵茶」と呼ばれる茶の分類に属する。この阿波晩茶の名称については、「阿波番茶」や「阿波ばん茶」といった表記もみられ、この「番」には日常使いの意味がある。それに加えて、遅い時期まで成長した葉を使用するという意味で、現在は「阿波晩茶」と表記されている。 阿波晩茶の生産が盛んな地域は、丹生谷と呼ばれる那賀川流域の一帯と、その北部の上勝町域である。この阿波晩茶の起源は、平安時代の初期に弘法大師が中国から持ち帰ったとする説が知られている。近世には、文献資料に阿波晩茶と思われる「番茶」の語が見出される。さらに近代に入ると、阿波晩茶が広く生産されており、明治15年(1882)の『徳島県統計表』には「緑茶」と並んで「晩茶」の生産量についての記載がみられる。それによると、阿波晩茶は緑茶の倍近くの30万3159斤が生産されており、製茶の斤換算(1斤=250匁=938グラム)で約284トンに及ぶ。このように、明治期の徳島県下では、緑茶よりも阿波晩茶が広く流通していたことが分かる。また、本件の三郡だけで県内の総生産量の三分の一以上を占めており、本件一帯が阿波晩茶の一大生産地だったことがわかる。 阿波晩茶の用法では、自家消費のほかにも親類や知人に配ることが多かったが、時代が下がると家業として重視されるようになる。明治期から昭和期にかけては、仲買人が大量の茶を定期的に買い付け、茶商に卸して売り捌くようになった。そのなかで、明治期の後半から大正期にかけて生産量が急増し、販路が拡大する。当時、阿波晩茶は徳島市が最大の消費地であったが、昭和期には県外の香川県や兵庫県淡路島にも流通していた。香川県下では一円に出荷され、小豆島、直島、豊島などの島々でも消費された。 阿波晩茶は、生活の多様な場面で使われてきている。産地の地元では、まずはお茶として愛飲されている。自宅で飲むために作るのが一般的で、冬は温め、夏は冷やして飲む。このほかにも、茶漬けにして食べている。大麦と米を混ぜた麦飯を主食にしていた頃は、熱い茶で茶漬けにしてよく食べられていた。また、臼で挽いた蕎麦粉に沸かした茶をかけて、練って食べられてもいた。今日でも魚介類を茹でる時の臭み取りにも利用されている。また、仏壇に供える茶を「お茶湯」と呼んでおり、盆の供物として阿波晩茶の新茶を仏壇に供える風習がみられる。 阿波晩茶の製造は、夏季の茶葉を使用した特色ある製法で、家ごとに生産されている。7、8月の期間に、茶摘み、茶茹で、茶摺り、漬け込み、茶干し、選別の各工程で製造される。茶畑は、山の傾斜地、家の周囲、田畑の畔などに分布し、栽培品種はヤマチャと呼ばれる在来種などである。茶摘みは、7月から始まる。手摘みであるため、数日から長いと二週間以上を作業に要する。家族や親類などの身内で行うが、労力不足の場合は近所や知人を摘み手に雇う。摘み取った茶葉は、家の作業場に運び込んで作業を行う。 次の茶茹で、茶摺り、漬け込みの作業は、一日で行う。茶茹で作業では、摘み取った茶葉を沸騰した竈の大釜に入れて、二股状の又木で押し込みながら茶葉が茶色く変色するまで茹でる。次の茶摺り作業では、茹でて柔らかくなった茶葉を摺って、茶葉の表面に傷をつける。茶葉に傷をつけておくことで、漬け込み時の発酵が促進される。この茶摺り作業では、現在も「茶摺り舟」を使った手作業が続けられている。次の漬け込み作業では、茹でて茶摺りをした茶葉を巨大な木製桶に入れて漬け込む。そのときは、空気が入らないように茶葉を踏み込んで固める。蓋をする時は、芭蕉や棕櫚の葉などを中敷きにして隙間をなくして密閉する。そして、蓋に自然石を積み上げて押さえ込む。最後に、茶茹で作業の煮汁を桶一杯に注ぐ。これらの一連の作業には、酸素を嫌う乳酸菌で発酵させる嫌気発酵を促すため、茶葉の間に入り込んだ空気を抜くという意図がある。また、気温が高い夏季に密封して漬け込むことで、茶葉の発酵が促進される。 次の茶干し作業では、桶に漬け込んだ茶葉を取り出し、晴天に合わせて天日干しで乾燥させる。桶から茶葉を取り出すには、溜まった茶汁を抜き取ってから茶葉をほぐしながら出していく。茶葉は、庭先や路上に敷き詰めた筵などに広げて乾燥させる。 最後の選別作業では、茶葉に混ざった茶の実や割れた葉などを取り除く。次に、茶、枝、粉に分ける。篩や箕で選別してから、最後に手作業で選別し、形が崩れないように紙袋に詰めて出荷する。生産量が最も多い家では約1・5トンになるが、個人販売や自家消費だけで製造する家も多い。