国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財
主情報
名称
:
静岡浅間神社廿日会祭の稚児舞
ふりがな
:
しずおかせんげんじんじゃはつかえさいのちごまい
解説表示▶
種別1
:
民俗芸能
種別2
:
渡来芸・舞台芸
その他参考となるべき事項
:
公開日:毎年4月25日、7月28日(選択当時・お出掛けの際は該当する市町村教育委員会などにご確認ください)
選択番号
:
選択年月日
:
2013.03.12(平成25.03.12)
追加年月日
:
選択基準1
:
(二)芸能の変遷の過程を示すもの
選択基準2
:
(三)地域的特色を示すもの
選択基準3
:
所在都道府県、地域
:
静岡県
所在地
:
保護団体名
:
静岡浅間神社廿日会祭の稚児舞保存会
解説文:
詳細解説
静岡浅間神社廿日会祭の稚児舞は、4月1日から5日の静岡浅間神社廿日会祭の最終日に奉納される稚児舞楽【ちごぶがく】であり、祭の中心となる芸能である。安倍川を挟んで対岸にあった別当寺【べっとうじ】である建穂寺【たきょうじ】(明治2年焼失)の稚児舞楽が、浅間神社の祭礼でも演じられるようになったもので、16世紀半ばには既に行われていたことが、史料から確認される。
現在は、静岡市内の氏子から選ばれた小学校中学年から六年生までの少年4人が稚児を務める。桜または山吹の花を挿した天冠をかぶり、額に白粉で月形を描くのが特徴である。伝承演目は、二人舞の「振鉾【えんぶ】」「安摩【あま】」「太平楽【たいへいらく】」、一人舞の「納曽利【なそり】」「還城楽【げんじょうらく】」の5番で、「安摩」と併行して演じられる「二の舞【にのまい】」の爺・婆の役だけは、大人が仮面を付けて務める。伴奏楽器は、三管【さんかん】( 龍笛【りゅうてき】・笙【しょう】・篳篥【ひちりき】)三鼓【さんこ】(楽太鼓【がくだいこ】・鞨鼓【かっこ】・鉦鼓【しょうこ】)である。
なお、舞楽の奉納に先立って、稚児を乗せた輿【こし】が山車【だし】や仮装行列などの「お踟【ねり】」を従えて市中を巡行し、神社に到着すると、稚児の前でお踟に付随するさまざまな余興が披露される。
本件は、宮廷芸能である舞楽(雅楽【ががく】の上演形態の一つで、舞を主体とするもの)が地方に伝播し、神社の祭礼や延年【えんねん】とよばれる寺院の行事に取り入れられ、民俗芸能化したものの一例。なかでも、少年が演目の全てまたは主要部分の舞を演じる「稚児舞楽」の、東海地方における典型例の一つである。
(※解説は選択当時のものをもとにしています)
関連情報
(情報の有無)
添付ファイル
なし
解説文
静岡浅間神社廿日会祭の稚児舞は、4月1日から5日の静岡浅間神社廿日会祭の最終日に奉納される稚児舞楽【ちごぶがく】であり、祭の中心となる芸能である。安倍川を挟んで対岸にあった別当寺【べっとうじ】である建穂寺【たきょうじ】(明治2年焼失)の稚児舞楽が、浅間神社の祭礼でも演じられるようになったもので、16世紀半ばには既に行われていたことが、史料から確認される。 現在は、静岡市内の氏子から選ばれた小学校中学年から六年生までの少年4人が稚児を務める。桜または山吹の花を挿した天冠をかぶり、額に白粉で月形を描くのが特徴である。伝承演目は、二人舞の「振鉾【えんぶ】」「安摩【あま】」「太平楽【たいへいらく】」、一人舞の「納曽利【なそり】」「還城楽【げんじょうらく】」の5番で、「安摩」と併行して演じられる「二の舞【にのまい】」の爺・婆の役だけは、大人が仮面を付けて務める。伴奏楽器は、三管【さんかん】( 龍笛【りゅうてき】・笙【しょう】・篳篥【ひちりき】)三鼓【さんこ】(楽太鼓【がくだいこ】・鞨鼓【かっこ】・鉦鼓【しょうこ】)である。 なお、舞楽の奉納に先立って、稚児を乗せた輿【こし】が山車【だし】や仮装行列などの「お踟【ねり】」を従えて市中を巡行し、神社に到着すると、稚児の前でお踟に付随するさまざまな余興が披露される。 本件は、宮廷芸能である舞楽(雅楽【ががく】の上演形態の一つで、舞を主体とするもの)が地方に伝播し、神社の祭礼や延年【えんねん】とよばれる寺院の行事に取り入れられ、民俗芸能化したものの一例。なかでも、少年が演目の全てまたは主要部分の舞を演じる「稚児舞楽」の、東海地方における典型例の一つである。 (※解説は選択当時のものをもとにしています)
詳細解説▶
詳細解説
河口の稚児の舞は、富士河口湖町に伝承されている芸能で、河口浅間(あさま)神社の4月と7月の祭礼時に、小学校二年生から六年生ぐらいまでの少女たちによって神社の拝殿で演じられている。伝承演目は五番である。 河口は、古くから甲府・信州方面と富士吉田・御殿場方面を結ぶ交通の要衝であり、また、富士登拝の主要な拠点として、富士講が盛んとなった江戸時代には、多くの御師(おし)の家が軒を連ねる御師町となった。 その中心に位置するのが河口浅間神社である。同社の四月例大祭は「孫見祭(まごみまつり)」と呼ばれ、旧暦時代は四月初申(はつさる)の行事であったが、現在は4月25日に行われている。この時は神輿渡御が祭事の中心であり、稚児の舞は「御幣(ごへい)の舞」「扇(おうぎ)の舞」「剣(つるぎ)の舞」の三番のみ奉納される。それに対し、7月28日の「太々御神楽祭」(地元ではオダイダイとよぶ)は稚児の舞が中心の祭礼で、「八方(はっぽう)の舞」と「宮めぐり」を加えた全五番が午前・午後を通じて演じられる。このことは、稚児の舞が、かつて河口御師が祈祷の一環として演じた太々神楽の流れを汲む芸能であることの証左とも考えられている。なお、現在も使用されている太鼓に「元禄十丁丑年夏 永代太々御神楽太鼓」の刻銘があり、文書史料の上からも、宝暦頃には太々神楽講が組織されていたことが知られる。一方、現在の稚児の舞に結びつく資料としては、嘉永元(1848)年8月に作られた陣羽織が神社に残されている。 稚児の舞が演じられる拝殿は、正対する本殿と回廊で結ばれている。本殿寄りの中央に採物(とりもの)を載せた台が置かれ、本殿に向かって左側に稚児たちが縦一列に並んで座る。稚児の扮装は、白の着付に緋色(ひいろ)の千早(ちはや)、指貫袴(さしぬきばかま)で錦の陣羽織を羽織り、緋色の襷(たすき)を掛ける。頭には瓔珞(ようらく)をかぶり、後頭部に長い熨斗(のし)を付ける。向かって右側には太鼓(鋲打ち太鼓)、カッコ(締太鼓)各1人、笛3人ほどで構成される下方(したかた)(囃子)が並ぶ。 舞の始まり方はすべての演目共通で、まず「呼び出し」と呼ばれる笛の曲を合図に、稚児たちは頭を垂れる。これを二回繰り返した後、稚児たちは膝に載せた両手を前に滑らせ、さらに背後に回しつつ、上半身を水平にする独特の深い礼をする。これが終わると、最初の舞い手が立ち上がり、採物台の前に跪いて一礼すると、右手に鈴、左手に御幣、扇、剣などの採物を取る。ここから囃子が入り、舞が始まるという手順である。「御幣の舞」は原則2人、「扇の舞」は原則3人、「剣の舞」は1人で演じるが、最初の人(組)が舞い終わると、次の人(組)が同じ舞を舞うという形で、全員がすべての舞を舞う。この三番は、前後左右の四方を順に向いて同じ所作をするが、「八方の舞」は「御幣の舞」を複雑にした形で、四方の次に斜め四方を向いて舞い、計八方を向くことになる。斜め四方を向いて舞う時に、片膝をついて御幣を畳に立てるような所作をするのが特徴である。最後の「宮めぐり」は、全員が右手に鈴、左手に扇を持ち、拝殿から本殿前をめぐる回廊を右周りに3回めぐる。以上の舞を通して、足の動きは摺り足を基本とするが、前に進んだり向きを変える時、爪先を上げてから足を大きく蹴り出し、少し戻して踵から畳に着けたり、逆に後ろへ下がる時は、爪先を上げてから半円を描くように回しながら後ろに動かすなど、様式化された特徴ある足の動きをする。 稚児になる少女は、かつては河口浅間神社の神職・御師の娘に限られていた。現在は、氏子のなかから広く選抜されているが、両親健在であることをはじめ、神社に対する信仰心の厚さや家の格式など、比較的厳しい条件は今も残っている。また、その年の卒業者の人数と新規加入者の人数が同じとは限らないので、稚児の数は年によって一定しないが、おおよそ、7、8人から10人程度である。 (※解説は選択当時のものをもとにしています)