国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財
主情報
名称
:
鳳凰の舞
ふりがな
:
ほうおうのまい
解説表示▶
種別1
:
民俗芸能
種別2
:
風流
その他参考となるべき事項
:
選択番号
:
1
選択年月日
:
1973.11.05(昭和48.11.05)
追加年月日
:
選択基準1
:
選択基準2
:
選択基準3
:
所在都道府県、地域
:
東京都
所在地
:
保護団体名
:
鳳凰の舞保存会
解説文:
下平井の鳳凰の舞は、東京都西多摩郡日の出町平井の下平井地区に伝承されている風流【ふりゅう】系の芸能であり、雨乞いや悪疫退散を目的として臨時に踊られてきたが、現在は地元の春日神社の秋の祭礼時に毎年行われている。歌舞伎の要素を取り入れたとされる「奴の舞」と太鼓踊である「鳳凰の舞」から成り立ち、鳳凰をかたどった天冠をかぶり「鳳凰の舞」を踊ることから、全体をこの名称で呼ぶようになった。
東京都西多摩郡日の出町は都心から西へ五〇キロメートル圏内に位置する。町の西側の日の出山に源を発する平井川の流れに沿って集落が形成され、養蚕を中心とした農業を主産業としていたが、昭和四十年代以降は農業の占める割合は著しく減少した。
農業が主産業であったころには、干ばつが続くと雨乞いが行われて、そのとき、下平井の鳳凰の舞が奉納された。また、神社の祭礼でも時折踊られることがあった。雨乞いとしては、昭和二十二年八月に奉納されたのが今のところ最後となっており、昭和三十年代になると春日神社の秋の祭礼時に定期的に演じられるようになる。近年、例祭日は九月二十九日前後の土曜日、日曜日となり、平成十七年は十月一・二日に執り行われた。両日とも、下平井地区の集会所に一同勢揃いし、行列を組み笛と太鼓で囃しながら地区内を練り歩き、途中数か所で「奴の舞」と「鳳凰の舞」を演じる。この巡行は道行と呼ばれ、花傘に行燈が付いた万燈【まんどう】、「奴の舞」の踊り手である奴、「鳳凰の舞」の踊り手である鳳凰・ささら・軍配・小太鼓、そして、大太鼓、締太鼓、笛、その他大勢が付き従う。十月二日の本祭日には、まず神社へ道行をして踊りを奉納し、その後に地区内も廻り踊る。
「奴の舞」は、小学生の少年が務める演目である。奴は赤い襦袢の上に紺地の短い単衣を着て、三尺帯をたれ結びにし、赤い襷をかけ、頭にとき色の鉢巻を前で結び、草鞋ばきである。顔には鼻筋に一本白く白粉を塗り、両頬に紅をつける。右手に扇、左手に木刀を持って演じる。踊りの場の中央には薦【こも】を巻いた大太鼓が置かれ、奴は囃子が演奏されるなか、一人ずつ踊りながら登場し、大太鼓を中心に円陣をつくる。踊り方は、右手と右足を同時に前に出して腰を落とし、腰を落とした姿勢のまま右手の扇を上下させ、左手の木刀は逆手に持って背につける。次に、左手と左足を同時に前に出して腰を落とし、今度は木刀の中ほどを持って輪を描くように回し、一方、扇を持った右手は背に置く。この所作を繰り返して奴が一五、六人、全員踊りの場に出揃うと、囃子が止み、奴全員が大太鼓に向かい、両膝を左右に開き、木刀を立て、扇を持った右手は膝頭に置く姿勢でその場に座り、奴の台詞となる。奴の台詞は、奴が一人ずつ順番に台詞を披露するもので、必ず「エッヘン」で始まり、最後は「ホホ、敬って申す」で結ぶ。一番目の奴の台詞は決まっているが、二人目以降は適宜決められる。台詞は「ころは元禄十四年、師走半ばの十四日、雪降り積もる真夜中に、寝耳に響く陣太鼓、その音も高き山鹿流、山よ川よの合言葉、探り入りたる炭部屋に、高野師直捕り押さえ、首級挙げて引き揚げる。名も高輪の泉岳寺、忠臣義士の名は末代」というように歌舞伎の長台詞をうかがわせ、『忠臣蔵』や『菅原伝授手習鑑【すがわらでんじゅてならいかがみ】』を題材にしたものなどがある。また、雨乞いの台詞もある。最後の奴は「ホホ、敬って申す」の後に「お暇申して いざや友達」と続けて、それを合図に奴が立ち上がり、入場と同じ所作を繰り返して退場する。
「奴の舞」が終わると「鳳凰の舞」が始まる。これは成人男性によるもので、踊り手は鳳凰四人、ささら四人、軍配一人、小太鼓一人の計一〇人である。このうち鳳凰と小太鼓は鳳凰をかたどった冠をつけ、ささらと軍配は赤い頭巾をつける。扮装は、揃いの単衣に襷をかけ、裁着袴【たっつけばかま】に草履ばきであり、腰帯の後ろに小さな幣を挿す。鳳凰は手に太鼓の桴を持ち、軍配は背に天狗面をつけている。囃子が奏されると、軍配を先頭に、鳳凰、ささら、小太鼓の順に出て、「奴の舞」と同様に踊りの場の中央に置かれた大太鼓を中心にして鳳凰が相対して位置し、その外側、鳳凰の間にささらが立ち、さらに外側に軍配、小太鼓が向かい合い、三重の円を描くように並ぶ。軍配の「そーりゃ 持ってこい」の掛け声をきっかけに囃子方によって「打【ぶ】っ込【こ】み」の囃子が奏されて「打っ込み唄」が歌われ、踊りが始まる。雨乞のときには「打っ込み唄」の歌詞を「御嶽山の黒雲 雨がざんざと降ってきた こーれにかーかれ 夕立やーい」と替えて歌う。
関連情報
(情報の有無)
添付ファイル
なし
解説文
下平井の鳳凰の舞は、東京都西多摩郡日の出町平井の下平井地区に伝承されている風流【ふりゅう】系の芸能であり、雨乞いや悪疫退散を目的として臨時に踊られてきたが、現在は地元の春日神社の秋の祭礼時に毎年行われている。歌舞伎の要素を取り入れたとされる「奴の舞」と太鼓踊である「鳳凰の舞」から成り立ち、鳳凰をかたどった天冠をかぶり「鳳凰の舞」を踊ることから、全体をこの名称で呼ぶようになった。 東京都西多摩郡日の出町は都心から西へ五〇キロメートル圏内に位置する。町の西側の日の出山に源を発する平井川の流れに沿って集落が形成され、養蚕を中心とした農業を主産業としていたが、昭和四十年代以降は農業の占める割合は著しく減少した。 農業が主産業であったころには、干ばつが続くと雨乞いが行われて、そのとき、下平井の鳳凰の舞が奉納された。また、神社の祭礼でも時折踊られることがあった。雨乞いとしては、昭和二十二年八月に奉納されたのが今のところ最後となっており、昭和三十年代になると春日神社の秋の祭礼時に定期的に演じられるようになる。近年、例祭日は九月二十九日前後の土曜日、日曜日となり、平成十七年は十月一・二日に執り行われた。両日とも、下平井地区の集会所に一同勢揃いし、行列を組み笛と太鼓で囃しながら地区内を練り歩き、途中数か所で「奴の舞」と「鳳凰の舞」を演じる。この巡行は道行と呼ばれ、花傘に行燈が付いた万燈【まんどう】、「奴の舞」の踊り手である奴、「鳳凰の舞」の踊り手である鳳凰・ささら・軍配・小太鼓、そして、大太鼓、締太鼓、笛、その他大勢が付き従う。十月二日の本祭日には、まず神社へ道行をして踊りを奉納し、その後に地区内も廻り踊る。 「奴の舞」は、小学生の少年が務める演目である。奴は赤い襦袢の上に紺地の短い単衣を着て、三尺帯をたれ結びにし、赤い襷をかけ、頭にとき色の鉢巻を前で結び、草鞋ばきである。顔には鼻筋に一本白く白粉を塗り、両頬に紅をつける。右手に扇、左手に木刀を持って演じる。踊りの場の中央には薦【こも】を巻いた大太鼓が置かれ、奴は囃子が演奏されるなか、一人ずつ踊りながら登場し、大太鼓を中心に円陣をつくる。踊り方は、右手と右足を同時に前に出して腰を落とし、腰を落とした姿勢のまま右手の扇を上下させ、左手の木刀は逆手に持って背につける。次に、左手と左足を同時に前に出して腰を落とし、今度は木刀の中ほどを持って輪を描くように回し、一方、扇を持った右手は背に置く。この所作を繰り返して奴が一五、六人、全員踊りの場に出揃うと、囃子が止み、奴全員が大太鼓に向かい、両膝を左右に開き、木刀を立て、扇を持った右手は膝頭に置く姿勢でその場に座り、奴の台詞となる。奴の台詞は、奴が一人ずつ順番に台詞を披露するもので、必ず「エッヘン」で始まり、最後は「ホホ、敬って申す」で結ぶ。一番目の奴の台詞は決まっているが、二人目以降は適宜決められる。台詞は「ころは元禄十四年、師走半ばの十四日、雪降り積もる真夜中に、寝耳に響く陣太鼓、その音も高き山鹿流、山よ川よの合言葉、探り入りたる炭部屋に、高野師直捕り押さえ、首級挙げて引き揚げる。名も高輪の泉岳寺、忠臣義士の名は末代」というように歌舞伎の長台詞をうかがわせ、『忠臣蔵』や『菅原伝授手習鑑【すがわらでんじゅてならいかがみ】』を題材にしたものなどがある。また、雨乞いの台詞もある。最後の奴は「ホホ、敬って申す」の後に「お暇申して いざや友達」と続けて、それを合図に奴が立ち上がり、入場と同じ所作を繰り返して退場する。 「奴の舞」が終わると「鳳凰の舞」が始まる。これは成人男性によるもので、踊り手は鳳凰四人、ささら四人、軍配一人、小太鼓一人の計一〇人である。このうち鳳凰と小太鼓は鳳凰をかたどった冠をつけ、ささらと軍配は赤い頭巾をつける。扮装は、揃いの単衣に襷をかけ、裁着袴【たっつけばかま】に草履ばきであり、腰帯の後ろに小さな幣を挿す。鳳凰は手に太鼓の桴を持ち、軍配は背に天狗面をつけている。囃子が奏されると、軍配を先頭に、鳳凰、ささら、小太鼓の順に出て、「奴の舞」と同様に踊りの場の中央に置かれた大太鼓を中心にして鳳凰が相対して位置し、その外側、鳳凰の間にささらが立ち、さらに外側に軍配、小太鼓が向かい合い、三重の円を描くように並ぶ。軍配の「そーりゃ 持ってこい」の掛け声をきっかけに囃子方によって「打【ぶ】っ込【こ】み」の囃子が奏されて「打っ込み唄」が歌われ、踊りが始まる。雨乞のときには「打っ込み唄」の歌詞を「御嶽山の黒雲 雨がざんざと降ってきた こーれにかーかれ 夕立やーい」と替えて歌う。