国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
記録作成等の措置を講ずべき無形文化財
主情報
名称
:
真言声明
ふりがな
:
しんごんしょうみょう
解説表示▶
種別1
:
芸能
種別2
:
音楽
その他参考となるべき事項
:
指名区分
:
選択年月日
:
1955.03.19(昭和30.03.19)
選択基準1
:
選択基準2
:
選択基準3
:
地域
:
解説文:
声明はわが国の音楽に大きな影響を及ぼしたもので、特に平曲、謡曲等は直接に声明の影響を受け、また、近世の諸浄瑠璃、長唄、民謡等は声明よりその系統をひくものである。このように声明はわが国の音楽史上重要な地位を占めるものであるが、仏教の諸種の法会の簡素化に伴い、これに用いられる声明も、長年の間には次第に廃曲となってしまうおそれがある。 宗祖弘法大師が中国より声明を伝えたが、この頃の声明がどのようなものであったか、現在では知ることができない。爾来相伝して、しばらくの後に名手寛朝が出て、中興の祖となった。彼は真言声明の達人として著名である。寛朝よりしばらくして宗観が出て真言声明の声価を高からしめた。宗観を大進上人と呼んだので、その声明を「進流」という。この声明はその後、全国に普及するとともに、その曲節も乱れるに至ったので、近衛天皇の頃、京都御室の覚性法親王は仁和寺へ真言声明を召集し、検討の結果、相応院流(本相応院流、新相応院流)、醍醐流、進流の四流に区分した。しかるに鎌倉時代中期に至り、高野山に進流を移したので、進流を「南山進流」ということとなった。
その後、正応年間に高野山の頼瑜僧正は勅許を得て紀伊国根来山に移り、南山進流と醍醐流とを合わせ研究して一流を開いた。これを新義声明という。天正十三年根来山は豊臣秀吉の攻撃により焼亡し、その一部は大和の長谷寺に逃れて豊山派を開き、他の一部は京都に逃れて智山派を開いた。かくして真言声明は南山進流、新義豊山派、同智山派の三流が今日に伝えられている。
声明は各種の法会に唱えられるものであるが、近時次第に法会は往時のように十分に時間をかけて盛大に行うということが少なくなり、簡略化され、それに要したいろいろな声明が唱えられなくなり、声明の伝承が危ぶまれている。
関連情報
(情報の有無)
保持者情報(保持者/芸名・雅号)
なし
団体情報
なし
添付ファイル
なし
解説文
声明はわが国の音楽に大きな影響を及ぼしたもので、特に平曲、謡曲等は直接に声明の影響を受け、また、近世の諸浄瑠璃、長唄、民謡等は声明よりその系統をひくものである。このように声明はわが国の音楽史上重要な地位を占めるものであるが、仏教の諸種の法会の簡素化に伴い、これに用いられる声明も、長年の間には次第に廃曲となってしまうおそれがある。 宗祖弘法大師が中国より声明を伝えたが、この頃の声明がどのようなものであったか、現在では知ることができない。爾来相伝して、しばらくの後に名手寛朝が出て、中興の祖となった。彼は真言声明の達人として著名である。寛朝よりしばらくして宗観が出て真言声明の声価を高からしめた。宗観を大進上人と呼んだので、その声明を「進流」という。この声明はその後、全国に普及するとともに、その曲節も乱れるに至ったので、近衛天皇の頃、京都御室の覚性法親王は仁和寺へ真言声明を召集し、検討の結果、相応院流(本相応院流、新相応院流)、醍醐流、進流の四流に区分した。しかるに鎌倉時代中期に至り、高野山に進流を移したので、進流を「南山進流」ということとなった。 その後、正応年間に高野山の頼瑜僧正は勅許を得て紀伊国根来山に移り、南山進流と醍醐流とを合わせ研究して一流を開いた。これを新義声明という。天正十三年根来山は豊臣秀吉の攻撃により焼亡し、その一部は大和の長谷寺に逃れて豊山派を開き、他の一部は京都に逃れて智山派を開いた。かくして真言声明は南山進流、新義豊山派、同智山派の三流が今日に伝えられている。 声明は各種の法会に唱えられるものであるが、近時次第に法会は往時のように十分に時間をかけて盛大に行うということが少なくなり、簡略化され、それに要したいろいろな声明が唱えられなくなり、声明の伝承が危ぶまれている。