国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
東禅寺
ふりがな
:
とうぜんじ
東禅寺(僊源亭)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
近世
年代
:
西暦
:
面積
:
7488.0 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2010.02.22(平成22.02.22)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡,三.社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡,九.外国及び外国人に関する遺跡
所在都道府県
:
東京都
所在地(市区町村)
:
東京都港区
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
東禅寺(僊源亭)
解説文:
詳細解説
東禅寺(とうぜんじ)【東京都港区】
幕末の開国にともない、安政5年(1858)、江戸高輪の東禅寺に最初の英国公使館が置かれ、オールコックの宿館として慶応元年(1865年)まで利用された。二度尊皇攘夷派による襲撃の場ともなった。幕末の外交、政治史を知る上で貴重である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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東禅寺(僊源亭)
東禅寺(山門)
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東禅寺(僊源亭)
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東禅寺(山門)
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解説文
東禅寺(とうぜんじ)【東京都港区】 幕末の開国にともない、安政5年(1858)、江戸高輪の東禅寺に最初の英国公使館が置かれ、オールコックの宿館として慶応元年(1865年)まで利用された。二度尊皇攘夷派による襲撃の場ともなった。幕末の外交、政治史を知る上で貴重である。
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詳細解説
東禅寺は、幕末の安政6年(1859)、最初の英国公使館が置かれた場所である。東禅寺は臨済宗妙心寺派に属し、慶長15年(1610)、日向飫肥藩主伊東祐慶を開基、嶺南崇六を開山として江戸溜池の地に創建、寛永13年(1636)に現在地である高輪に移転した。飫肥藩主伊東家、仙台藩主伊達家、岡山藩主池田家等大名家の菩提寺ともなり、また、臨済宗妙心寺派の江戸触頭であった。さらに、その地位や境内の広さ等から、折に触れて幕府役人の詰所としても機能していた。 幕末の開国に伴い、安政6年(1859)6月、初代英国公使(着任時は総領事)ラザフォード・オールコックが着任すると、東禅寺はその宿所として提供され、慶応元年(1865)6月までの7年間、英国公使館として使用された。文久元年(1861)5月には尊王攘夷派の水戸藩浪士によって、翌2年5月には同じく松本藩士が東禅寺を襲撃する事件が発生、死傷者を出すなど、幕末の混乱した情勢を反映する舞台となった。オールコックが著した日本滞在記として有名な『大君の都』(“The Capital of the Tycoon”)には、東禅寺事件の描写を含め、公使館時代の東禅寺の様子が詳述されており、そのほか当時の公使館やその活動に関する文献・写真等の資料は多数存在する。 2度の襲撃後、公使や公使館員は安全な横浜に移ったが、幕府が新たに造営していた品川宿に近い御殿山の4カ国の公使館も同2年12月に焼き討ちされた。こうして、東禅寺は公使館としてはほとんど利用されなくなり、最終的には高輪泉岳寺前に高輪接遇所が建設された慶応元年(1865)、公使館としての役割を正式に終えた。 現在の東禅寺の寺域は、往時に比べ縮小し、当時の建物の多くも失われているが、公使館員の宿所となっていた僊源亭や、その前に広がっていた庭園が良好に残っている。僊源亭は、幾度かの改築・増築が加えられているが、18世紀後期から19世紀初頭の間に造営されたと考えられ、大名家の江戸菩提寺における接客空間「御茶屋」建物であり、江戸におけるこの種の建物としては希少な例である。また、オールコックが絶賛した庭園は自然湧水を利用した池泉回遊式庭園で、一部埋めたてられているが概ね江戸末期の姿を残し、僊源亭を含めた景観は、公使館時代にベアトが撮影した古写真に見られる風景を今に伝えている。幕末期の江戸に置かれた外国公使館のうち、米・仏・蘭の各国公使館は大きく変貌したなかにあって、東禅寺は当時の公使館の姿を伝えるほぼ唯一の寺院である。 このように、東禅寺は、幕末に英国公使の宿所として利用され、東禅寺事件の場ともなり、関係する資料も豊富に存在する。我が国幕末の外交、政治を知る上で貴重であることから、史跡に指定し、その保護を図ろうとするものである。