国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
富士山
ふりがな
:
ふじさん
富士山
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
年代
:
西暦
:
面積
:
4478328.75 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
11
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2011.02.07(平成23.02.07)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
三.社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡
所在都道府県
:
2県以上
所在地(市区町村)
:
山梨県富士吉田市、南都留郡富士河口湖町・鳴沢村、静岡県富士宮市、裾野市、駿東郡小山町
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
富士山
解説文:
詳細解説
山梨県と静岡県の境界に聳える我が国最高峰の火山で、我が国を代表する信仰の山。古代の遙拝、修験者による登拝から、戦国時代には一般信者の登拝へ、さらには江戸時代の富士講へと信仰の広がりをみせた。山岳信仰のあり方を考えるうえで重要。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
富士山
山頂信仰遺跡
吉田口登山道
写真一覧
富士山
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山頂信仰遺跡
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吉田口登山道
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解説文
山梨県と静岡県の境界に聳える我が国最高峰の火山で、我が国を代表する信仰の山。古代の遙拝、修験者による登拝から、戦国時代には一般信者の登拝へ、さらには江戸時代の富士講へと信仰の広がりをみせた。山岳信仰のあり方を考えるうえで重要。
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詳細解説
富士山(標高3776メートル)は、山梨県と静岡県の境界に聳える我が国最高峰の火山で、古くからの信仰の山である。夏でも雪を頂き、時に火や煙を吐き出す神秘なさまは、その優美な姿とともに人々に崇められ、『万葉集』には日本の鎮めの神と歌われた。「不尽」「不二」「福慈」等とも表記され、「芙蓉峰(ふようほう)」、「富岳(富嶽)」とも呼ばれた。 富士山は奈良時代から平安時代にかけて噴火の記録を残し、浅間大神(あさまのおおかみ)として神階奉授を繰り返した。富士山本体を神とする浅間神が最初に祀られたのが、西南麓に位置する富士山本宮浅間大社(駿河国一宮(いちのみや))で、その旧地と伝承される山(やま)宮(みや)浅間神社は本殿を持たず、富士山遙拝の役割をもつ場所であったと考えられる。北麗においても、貞観6年(864)の噴火を契機に浅間神社が建立された(河口浅間神社や冨士御室浅間神社、一宮浅間神社等がその神社と想定されている)。久安5年(1149)に駿河国の末(まつ)代(だい)上(しよう)人(にん)が富士山頂に大日寺を建立し、如法経を埋経して以後、修験と結びついた宗教者による登(と)拝(はい)が展開していった。仏教と習合し、浅(せん)間(げん)大(だい)菩(ぼ)薩(さつ)とも称され、その本地は大日如来とされた。また、富士の人(ひと)穴(あな)(溶岩洞穴のひとつ。『吾妻鏡』にみえる)は浅間大菩薩の御在所として、また、胎内(たいない)洞穴(どうけつ)はその誕生地として、登拝者の信仰の対象となった。慶応4(明治元)年(1868)の神仏分離令により村山浅間神社と大日堂に分離された興(こう)法(ぼう)寺(じ)は、末代の創建によるとされ、村山修験の中心であった。15から16世紀には一般の道者の登拝も増加し、その様子は16世紀の製作とされる「絹(けん)本(ぽん)著(ちやく)色(しよく)富(ふ)士(じ)曼(まん)荼(だ)羅(ら)図(ず)」に描かれている。戦国期における一般道者による登拝の盛行は、冨士御室浅間神社に伝わる『勝(かつ)山(やま)記(き)』等からも窺うことができる。 近世、人穴で修行を行った長谷川(はせがわ)角(かく)行(ぎよう)(1541―1646)を経て、その教えを受け継いだ食(じき)行(ぎよう)身(み)禄(ろく)(1671―1733)、村(むら)上(かみ)光(こう)清(せい)(1682―1759)の時代に、富士講は隆盛期を迎え、登拝道や宿泊施設が整えられ、祈祷を行うとともに富士参詣の仲立ちを行う御師(おし)やその宿坊が発達していった。 噴火口は内院(ないいん)と呼ばれ、散銭が行われ、火口壁のいくつかのピークは曼荼羅における仏の世界に擬せられ、「お鉢めぐり」と呼ばれる巡拝が行われた。山頂部の八合目以上については、安永8年(1779)、幕府の裁定により富士山本宮浅間大社の支配権が認められた。 登拝道として、『甲斐国志』にみえるように吉田口、須走口、村山口、大宮口の4つがあり(『駿河志料』は後二者を一つにし、別に須山口をあげる)、江戸時代には吉田口から登る者が多かった。吉田口と須走口は八合目以上で合流する。これら以外に須山口、船津口があった。須山口は宝永4年(1707)の噴火により廃されるが、安永9年(1780)に復興し、明治16年(1883)、御殿場口登山道が開設されて、須山口二合八勺と結びつけられた。御師集落である河口から船津を経て山頂に向かう船津口のルートは、山崩れにより江戸時代に廃絶されている。村山口、大宮口は主に富士川以西の東海から近畿の、吉田口は関東及び甲府以北・以西の道者を対象としていた。吉田口登拝道(登山道)の成立は冨士御室浅間神社所蔵の神像の銘文から伊豆走湯山との関係が窺える。特に中ノ茶屋から馬返を経て山頂に至るルートの遺存状況は良好である。 これら登拝道の起点を中心に神社が存在する。河口浅間神社は古代からの官道である御(み)坂(さか)路(みち)に沿い、富士山一ノ鳥居が建てられていた御坂峠と禊(みそ)ぎ場と伝えられる母(はは)ノ(の)白(しら)滝(たき)がともに社有地となっている。冨士御室浅間神社は吉田口二合目に鎮座した本宮と河口湖畔に建立された里宮からなる。北口本宮冨士浅間神社は日本武尊(やまとたけるのみこと)が富士山を遙拝したとする伝承のある大塚(おつか)丘(やま)や火祭の神輿の行在所である御鞍(みくら)石(いし)を含め、吉田口の起点となっている。武田信玄等の庇護を受け、江戸中期以降、富士講の隆盛とともに、富士講との結びつきを強めた。富士講を広めた村上光清が享保年間に社殿の修復を行っている。須走口に冨士浅間神社、須山口に須山浅間神社があり、いずれも戦国期の史料にみえる。 神仏分離令により、山体から本地仏等の仏教色が排除される。そうした中、富士講の隆盛は引き続きみられたが、鉄道の発達は登拝道や御師集落の盛衰をもたらした。一方で、富士山は近代登山の対象ともなっていく。これらの社寺等の宗教施設と信仰関係遺跡、山頂に向かう登拝道は信仰の対象としての富士山を語るうえで欠かすことのできない要素である。 このように、富士山は、古代にあっては浅間神として崇められ、遙拝の対象から、修験者、やがて一般信者の登拝の対象となり、江戸時代には富士講が組織されて、富士登拝の著しい広がりをみせた。これらは古代から近代(現代)に至る山岳信仰のあり方を考える上で重要であることから、富士山八合目以上の山頂部を含む富士山本宮浅間大社、山宮浅間神社、御鞍石・大塚丘を含む北口本宮冨士浅間神社、御坂峠を含む河口浅間神社、冨士御室浅間神社(本宮・里宮)、村山浅間神社、大日堂、須山浅間神社、冨士浅間神社等の社寺と登拝道のうち条件の整った吉田口登拝道を史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。