国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
楠葉台場跡
ふりがな
:
くずはだいばあと
南面虎口(北東から)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
近世
年代
:
西暦
:
面積
:
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
11
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2011.02.07(平成23.02.07)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在都道府県
:
大阪府
所在地(市区町村)
:
大阪府枚方市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
南面虎口(北東から)
解説文:
詳細解説
京都守護職松平容保の建言に基づき、外国の脅威や尊皇攘夷派の活動から京都を防衛するため、慶応元年(1865)、淀川左岸に江戸幕府が造営した台場跡である。稜堡式構造を採用し、京街道を台場に取り込み関門を設置した。幕末の軍事を知る上で貴重。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
南面虎口(北東から)
楠葉台場跡全景
北面虎口北方土橋の橋台部石積
面虎口西側石積(南東から)
写真一覧
南面虎口(北東から)
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楠葉台場跡全景
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北面虎口北方土橋の橋台部石積
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面虎口西側石積(南東から)
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解説文
京都守護職松平容保の建言に基づき、外国の脅威や尊皇攘夷派の活動から京都を防衛するため、慶応元年(1865)、淀川左岸に江戸幕府が造営した台場跡である。稜堡式構造を採用し、京街道を台場に取り込み関門を設置した。幕末の軍事を知る上で貴重。
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詳細解説
楠葉台場跡は、慶応元年(1865)、江戸幕府が京都警衛のため築造した軍事施設及び関門(かんもん)施設である。八幡(やわた)関門、楠葉関門ともいう。遺跡は、天王山(てんのうざん)と男(おとこ)山(やま)丘陵との狭隘地を流れ出た淀川の左岸沿い、男山丘陵西麓に位置する。 幕末、欧米列強が日本へ接近するなか、嘉永7年(1854)に発生したロシアのプチャーチンによる大坂湾侵入は、大坂湾防衛の不備を露呈するとともに、外国船が淀川を遡上し京都を脅かす懸念を惹起させた。その後、京都警衛のため、京都への入口に当たる八幡・山崎の守衛の重要性が言われるようになり、文久2年(1862)、朝廷は八幡・山崎周辺への台場新築を発議した。翌年、八幡・山崎に関門を修築すべきとの京(きよう)都(と)守(しゆ)護(ご)職(しよく)松(まつ)平(だいら)容保(かたもり)の建白に基づき、幕府は容保を台場の指揮監督とし、勝海舟を総裁、広(ひろ)瀬(せ)元(げん)恭(きよう)を補佐役として八幡側(淀川左岸)の台場として本台場築造を計画し、元治(げんじ)元年(1864)に着工、翌慶応元年に竣工した。台場がこの地に築造された背景としては、当時京都で横行した尊攘派や長州藩等への対策として、京都への侵入を取り締まろうとする幕府や会津藩の意図があったものと考えられている。また、山崎側(淀川右岸)の台場として、当初楠葉の対岸、高浜村・上牧村の境に築造が計画されたが、その後、内陸の梶原(高槻市)に、西国街道を取り込む稜(りよう)堡(ほ)式台場が築造され、共に京都護衛に当たった。楠葉台場は各藩が交代で警備に当たり、その後、慶応3年頃には台場の沖合いに船改番所が置かれて水陸の関門として機能し、戊辰戦争においては戦いの舞台ともなった。 台場の設計図「河(か)州(しゆう)交(かた)野(の)郡(ぐん)楠(くず)葉(は)村(むら)関(かん)門(もん)絵(え)図(ず)一(いち)分(ぶ)計(ばかり)」(京都府立総合資料館蔵)や当時の仕用帳などの史料によれば、台場は南・西面に稜(りよう)堡(ほ)を備えた西洋式形態であり、南面塁の前に6間幅の堀を設け、西面塁の前に付け替えた放(ほう)生(じよう)川(がわ)を配置した。南・西面堀は共に石垣造りであり、西面の稜堡2カ所と南面塁1カ所に砲座を、南面塁東端に見張台を設けるなど、大坂側への厳重な備えを施すものであった。これに対して、京都側に当たる台場北・東面は小規模な土手と溝で区画される構造であった。また、台場築造に伴い、従来淀川土手上の京街道は台場内に迂回させされ、大坂側から来た者は、南面堀の土橋を渡って台場に入り、見切塁と番所を経て郭内の通路を通り、北面虎口を出て京都方面に向かうという関門としての構造であった。 枚方市教育委員会では、台場推定地の土地区画整理事業が計画されたことに伴い、平成19・20年度に発掘調査及び文献調査等を実施した。その結果、京阪電車軌道敷や河川改修等により失われた台場西端以外は、台場の外郭線や南面堀が水田畦畔等の地割として良好に残存し、平面形状は概ね設計図に準拠していることを確認した。また南面堀石垣基底部の根石列と胴木、南面虎口の基礎部、北面虎口土橋遺構、京街道の痕跡等を検出する等、地下遺構の残存状況を確認した。 このように、楠葉台場跡は、幕末に江戸幕府が京都警衛のため築造した軍事及び関門施設であり、臨海ではなく内陸河川沿いに築造された台場としても全国的に珍しい。京都を中心に展開した幕末の緊迫した政治・軍事状況を理解するうえで重要なものであることから、史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。