国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
伝法院庭園
ふりがな
:
でんぽういんていえん
浅草寺伝法院庭園
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種別1
:
名勝
種別2
:
時代
:
年代
:
西暦
:
面積
:
16402.52 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
特別区分
:
指定年月日
:
2011.09.21(平成23.09.21)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
一.公園、庭園
所在都道府県
:
東京都
所在地(市区町村)
:
東京都台東区
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
浅草寺伝法院庭園
解説文:
詳細解説
江戸時代初期に起源する浅草寺本坊の池泉庭園。大書院の西・北の低地に広がる2つの池泉及び双方を結ぶ渓流風の池泉から成る。豪壮な枯滝石組、中島・築山と一体を成す出入りの多い汀線など、大書院からの展望及び園路途上で展開する庭園景観は優秀であり、芸術上の価値は高い。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
浅草寺伝法院庭園
大書院からの眺望
沢飛石からの眺望
望嶽台からの眺望
伝法院玄関
伝法院客殿
写真一覧
浅草寺伝法院庭園
写真一覧
大書院からの眺望
写真一覧
沢飛石からの眺望
写真一覧
望嶽台からの眺望
写真一覧
伝法院玄関
写真一覧
伝法院客殿
解説文
江戸時代初期に起源する浅草寺本坊の池泉庭園。大書院の西・北の低地に広がる2つの池泉及び双方を結ぶ渓流風の池泉から成る。豪壮な枯滝石組、中島・築山と一体を成す出入りの多い汀線など、大書院からの展望及び園路途上で展開する庭園景観は優秀であり、芸術上の価値は高い。
詳細解説▶
詳細解説
浅草の雷門から仲(なか)見(み)世(せ)通(どお)りを北に抜けると、慶長元年(一五九六)に徳川家光(一六〇四~一六五一)が幕府の存立と安泰を祈願して堂塔を整備した浅草寺の境内が広がる。その西南隅部に位置する伝法院は浅草寺の本坊に当たり、客殿・大書院など一群の建造物の北面から西面にかけて優美な池泉庭園が展開することで知られる。 家光が寺容を整えた頃の浅草寺本坊は観音院と呼ばれていたが、寛永年間(一六二四~一六四三)に智(ち)楽(らく)院(いん)と名を改め、元禄三年(一六九〇)以降は伝法院と呼ばれるようになった。寛永十九年(一六四二)の火災により、浅草寺の堂塔が全焼したのに伴って焼失したが、慶安(けいあん)二年(一六四九)に本堂・山門・五重塔などとともに再建された。その後、安永元年(一七七二)に江戸市中から起こった大火の影響を受けて類焼し、安永六年(一七七七)以降に玄関・客殿・使者の間・大台所が再建された。元禄六年(一六九三)の『浅草寺(せんそうじ)境内(けいだい)惣(そう)図(ず)』(浅草寺蔵)によると、現在の伝法院の庭園の骨格は、既に江戸時代初期に完成していたものと見られる。明治四年(一八七一)には、大台所の西北の池泉に近接する位置に大(おお)書(じょ)院(いん)が建造され、現在見る地割及び建築・庭園の姿が完成した。 伝法院の庭園は、一群の建造物の西と北に、それらの地盤より一段と深く掘り窪めた2つの池泉、両者を結ぶ渓流風の流れを成す帯状の池泉、掘り上げた際の残土を盛って造成したと見られる背後の小高い築山などから成る。 湧水を水源とする北側の池泉は比較的単調な石積みの汀線から成り、北岸近くに「経(きょう)が島(しま)」と名付けられた大きな中島が浮かぶ。北側の池泉の西南隅からは、両岸が迫るやや幅の狭い渓流風の池泉が大書院西側の池泉へと通ずる。西側の池泉へと達した水は南北に広々とした水面を形成し、その西南岸付近の小島の南から敷地外へと排水される。 西側の池泉の意匠・構造は北側の池泉に比べて変化に富み、大書院をはじめとする一群の建造物から望む庭園の景観にも優れた意匠・構成が見られる。 その主景は、西岸中央部において池中へと緩やかに張り出す築山をはじめ、その北の小さな入江状の導水路を挟んで池泉の西北隅部に位置する枯滝石組みである。特に三段の構成を取る枯滝石組みは、随所に稜線の鋭い立石が組み込まれ、流れ落ちる水の力強さや息吹を象徴的に表現するのみならず、落ち口に当たる滝の前面に多くの玉石を洲浜状に敷き、流れ落ちた後に浅く静かな水面へと変化する水の姿をもよく表現している。 大書院から傾斜面伝いに池泉の東のほとりへと降り立つと、洲浜状の玉石敷きを縫って平らな沢飛び石を打った浜辺の景が広がる。ここから西を望むと、水面を挟んで、左手から出入りの多い池尻付近に浮かぶ小島、橋伝いに盛り上がりを見せる出島状の築山、さらには枯滝石組みへと連なる対岸の風景を一望することができる。 大書院からの展望のみならず、池泉の周りを巡る園路は、築山の頂部をはじめ、池泉のほとりへと通ずる石段、石敷きの浜辺、沢飛石、中島や流れに架かる橋など、歩みに伴って風景の移り変わりを次々と生み出す仕掛けに飛んでいる。文化年間の絵図によると、枯滝石組みの背後に当たる築山の高所には「望(ぼう)嶽亭(がくてい)」と呼ぶ六畳敷の亭舎が建てられ、遙かに富士山を展望することも可能であった。現在、北面する池泉の西北岸には園路が存在しないが、元は池泉の周りを一巡しつつ庭園の景を楽しむことのできる回遊式庭園であったことが明らかである。 以上のように、大書院の西・北の低地に広がる二つの池泉及び双方を結ぶ渓流風の池泉を中心として、豪壮な枯滝石組み、石敷きの浜辺、中島・築山と一体を成す出入りの多い汀線など、多彩な景が展開する伝法院庭園の造園意匠は優秀である。それは江戸幕府の祈願所であった浅草寺の本坊の池泉庭園として貴重であり、芸術上・観賞上の価値は高い。よって名勝に指定し、保護しようとするものである。