国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
小石川植物園(御薬園跡及び養生所跡)
ふりがな
:
こいしかわしょくぶつえん(おやくえんあとおよびようじょうしょあと)
養生所井戸
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種別1
:
名勝
種別2
:
史跡
時代
:
江戸
年代
:
西暦
:
面積
:
161588.38 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
146
特別区分
:
指定年月日
:
2012.09.19(平成24.09.19)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
四.学校、研究施設、文化施設その他教育・学術・文化に関する遺跡,六.交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設その他経済・生産活動に関する遺跡,一.公園、庭園
所在都道府県
:
東京都
所在地(市区町村)
:
東京都文京区
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
養生所井戸
解説文:
詳細解説
江戸幕府の御薬園を前身とし、明治8年に植物園となった日本の代表的な植物園。変化に富んだ地形及び多様な植物等が優れた風致景観を形成し、御薬園及び養生所等に関係する江戸時代以来の遺構が良好に保存され、観賞上及び歴史上の価値が高く貴重である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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養生所井戸
イロハモミジの並木
精子発見のイチョウ
日本庭園
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養生所井戸
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イロハモミジの並木
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精子発見のイチョウ
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日本庭園
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解説文
江戸幕府の御薬園を前身とし、明治8年に植物園となった日本の代表的な植物園。変化に富んだ地形及び多様な植物等が優れた風致景観を形成し、御薬園及び養生所等に関係する江戸時代以来の遺構が良好に保存され、観賞上及び歴史上の価値が高く貴重である。
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詳細解説
小石川植物園は、江戸幕府が武蔵野台地の東端にあたる白山台地の縁辺部に設置した小石川御薬園を前身とする。この地は、江戸時代前期には、第五代将軍徳川綱吉(1646~1709)が幼少期を過ごした館林藩下屋敷であったが、綱吉の将軍就任に伴い小石川御殿(白山御殿)とされ、その後、御薬園となった。 小石川御薬園は、幕府最初の御薬園の一つであった麻布御薬園(品川御薬園)の廃止に伴い、貞享元年(1684)に小石川御殿内に移されていた薬園を始まりとする。享保6年(1721)に敷地が拡張され、東半部は岡田利左衛門、西半部は芥川小野寺預かりとされ、薬草木の収集及び栽培、製薬が行われた。翌7年には、町医者小川笙船の建言に基づき、幕府による貧窮民対策の一環として、医療施設である小石川養生所(施薬院)が設置された。その後、小石川御薬園は国内の中心的な薬園、薬草木供給地としての役割を担うようになり、同20年には、青木昆陽により甘藷の試作も行われた。寛延元年(1748)以降、数度にわたり、小石川御薬園はその敷地の一部を武家屋敷として分割され縮小したが、台地上部の北側において幕末まで存続した。 明治元年(1867)、維新により小石川御薬園は分割されていた周辺の武家屋敷と共に新政府に引き渡され、医学校の所管となった。その後、所管の変更及び改称が繰り返され、同6年に太政官博覧会事務局に属したときに、小石川薬園として一般公開が始められている。明治8年に文部省所管の下に小石川植物園と改称され、わが国最初の植物園となり、同10年に東京大学の設立により東京大学法理文三学部附属植物園となった。 植物園となってからは、植物学の教育・研究の場として利用され、施設の拡充が図られた。明治10年に伊藤圭介により東京大学における最初の学術的出版といわれる『小石川植物園草木目録』が出版され、同14年に伊藤圭介・賀来飛霞が著し、その水準の高さから欧米の研究者にも注目された『東京大學小石川植物園草木圖説』が出版された。明治29年には、世界に先んじて、平瀬作五郎がイチョウ、池野成一郎がソテツから精子を発見した。 研究施設は主に南東の台地上部に配置されている。明治30年頃に温室が現在の位置に建設された。植物園の象徴的な施設となるこの温室の前面には、これを基点とする軸線が設定され、西洋風の幾何学的な配置の下に園路が定められ、花壇などが整備された。大正8年(1919)には、現在は柴田記念館となっている実験室が建設されている。一方、西北の低地部には江戸時代の池泉庭園が維持され、池泉に臨む建物が集会所として利用されていた。今日見られる植物園全体の空間構造は、この頃までに整えられ、継承されてきたものである。その後、大正12年の関東大震災では、避難場所として利用され、昭和20年(1945)の空襲では、御薬園の正門であった黒門、温室などが焼失し、園内の植物や庭園は甚大な被害を受けた。その復旧は主に昭和20~30年代にかけて実施されている。現在の本館は、昭和14年に内田祥三の設計により事務棟として建設されたものであり、旧東京医学校本館は、昭和44年に本郷から移築されたものである。 現在は、東京大学大学院理学系研究科附属植物園として、植物学の教育・研究に利用されるとともに、園全体に栽培、育成された多種多様な植物が四季を通じて良好な風致景観を形成し、多くの人々に親しまれている。園内の台地上部には本館、温室などの施設があり、植物分類標本園、薬園保存園、山地植物栽培場、各種の樹林など、植物を学ぶための環境が整えられており、ソメイヨシノの林、ツツジ園、イロハモミジやボダイジュの並木などが美観を添えている。西北の低地部には、台地上及び斜面の樹林を背景とし、梅林、紅葉山、滝跡などを回遊できる変化に富んだ意匠の池泉庭園が広がっており、市民の憩いの場となっている。 江戸時代から現代までの周辺における土地利用の変遷については、古絵図や地図によって明らかになっており、現在の植物園の地割は享保年間の御薬園及び養生所のものをほぼ継承していることが分かっている。また、植物園内については、これまでに実施された発掘調査において、御薬園、養生所、武家屋敷などの江戸時代の遺構・遺物が見つかっている。その中に小石川御殿の堀と推定される溝もあり、御殿と植物園の範囲はおおむね重なることが推定されている。その他、旧石器、縄文、弥生時代、中世の遺物・遺跡も確認されている。現在、園内に見られる江戸時代の代表的な遺構には、御薬園の乾薬場跡及び養生所の井戸がある。明治時代以降の園内の変遷については、大学所有の園内図及び明治9年に加藤竹齋が描いた『植物園一覧圖』によって知ることができ、精子発見のイチョウ、池泉庭園周辺などが現在に引き継がれている。 以上のように、小石川植物園は、江戸幕府の御薬園を起源とする日本初の近代植物園であり、その変化に富んだ地形及び多様な植物等による風致景観は観賞上の価値が高く、市民にも公開され長く親しまれてきた国内の代表的な植物園として貴重である。また、江戸時代の地割を伝え、養生所などの江戸時代以来の遺構が良好に保存されており、日本医学史上重要であるとともに、近代における植物園の空間構造を継承し、日本の近代植物学の発祥の地として、植物学史上の価値が高い。よって、名勝及び史跡に指定して保護を図ろうとするものである。