国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
鷹島神崎遺跡
ふりがな
:
たかしまこうざきいせき
鷹島神崎遺跡遠景
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
鎌倉
年代
:
西暦
:
面積
:
384073.67 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
55
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2012.03.27(平成24.03.27)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡,九.外国及び外国人に関する遺跡
所在都道府県
:
長崎県
所在地(市区町村)
:
長崎県松浦市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
鷹島神崎遺跡遠景
解説文:
詳細解説
伊万里湾に浮かぶ鷹島の南岸東部沖の神崎と呼ばれる地域に所在する蒙古襲来に関わる戦場跡。弘安の役で沈没した元軍の船団の船体の一部や積み荷がまとまって出土するなど、元寇の具体像を知る上で重要な遺跡。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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鷹島神崎遺跡遠景
てつはう
調査風景
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鷹島神崎遺跡遠景
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てつはう
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解説文
伊万里湾に浮かぶ鷹島の南岸東部沖の神崎と呼ばれる地域に所在する蒙古襲来に関わる戦場跡。弘安の役で沈没した元軍の船団の船体の一部や積み荷がまとまって出土するなど、元寇の具体像を知る上で重要な遺跡。
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詳細解説
鷹島神崎遺跡は、長崎県本土北部、伊万里湾に浮かぶ鷹島の南岸東部沖の神崎と呼ばれる地域に所在する蒙古襲来に関わる戦場跡である。蒙古襲来(文永・弘安の役)は、文永2年(1274)・弘安4年(1281)の二度にわたり元軍が日本に来襲し、鎌倉幕府瓦解の遠因となるなど、我が国の中世の政治・社会に多大な影響を与えた、日本史上著名な事件である。 鷹島は、『中(なか)沼(ぬま)長(なが)久(ひさ)起(き)請(しよう)文(もん)』(弘安4年・1281)や『蒙(もう)古襲来(こしゅうらい)絵詞(えことば)』(永仁元年・1293)、『八(はち)幡(まん)愚(ぐ)童(どう)訓(くん)』(鎌倉時代中・後期成立)等にその名が見え、暴風雨の去った閏7月7日に御家人比島五郎(ひじまごろう)次郎(じろう)らが、この島で残敵掃討を行ったこと等が知られる。また、鷹島沖は弘安の役の際に、元軍の船団が暴風雨により沈没した地点として伝えられており、島の南岸では、古くから地元の漁師によって壺類や刀剣、碇石などが水中から引き揚げられていた。 この鷹島沖における最初の発掘調査は、昭和55年度から3カ年にわたり、文部省科学研究費特定研究「古文化財に関する保存科学と人文・自然科学」(研究代表 江上波夫 古代オリエント博物館長)の一環として行われた。鷹島南岸の沖合における調査の結果、床波(とこなみ)港と神崎港周辺において、鎌倉時代の陶磁器等が出土した。また、この発掘調査と同時に行われた地元住民が保管する採集品の調査によって、元の公用文字であるパスパ文字で書かれた「管軍(かんぐん)総把印(そうはいん)」が神崎港で採集されていたことも判明した。 平成元年度以降は鷹島町教育委員会により、神崎港の沖合における遺跡の範囲を確認するための発掘調査等が継続的に実施され、遺物の分布範囲や埋没状況が明らかとなった。遺物が集中して出土する地点は、いずれも海底にシルト層が堆積している範囲であり、海底の堆積土を約100センチメートル除去した土層から出土する。また、海底地形が大きく落ち込む斜面から集中して出土する傾向が認められる。特に、平成6年度の調査では、4つの碇石がいずれも海底に食い込んだ状態で発見され、神崎港の沖合に船舶が停泊していたことが判明し、平成22年度の発掘調査では、海底レーダー探査によって、船体と考えられる異常反応が認められた地点で、船体の一部と多量の磚が出土した。 出土した遺物には、褐釉陶器、青磁碗、漆製品、矢束や刀剣、甲冑などの武器・武具類、碇石や船体の一部である木材などがある。陶磁器類の年代は、いずれも13世紀後半であり、元軍が出航した中国江南地方で作られた粗製品が大半を占める。また、器種構成も壺類を中心とするなど、博多をはじめとする港湾都市から出土する同時期の陶磁器類の内容や組成とは明らかに異なる。また、『蒙古襲来絵詞』に描かれた「てつはう」と考えられる球状土製品が複数出土するとともに、武器・武具類も『蒙古襲来絵詞』に描かれている元軍の装備と類似しており、これらの遺物が弘安の役で沈没した元軍の船の積載品であることが確実となった。 鷹島神崎遺跡は、これまでの発掘調査によって、海底に元軍の沈没船が遺存し、また積載品の内容から武器をはじめとする各種道具の実態が判明する等、従来、文献・絵画によってしか知られなかった蒙古襲来の具体的様相が明らかとなった。蒙古襲来という日本史上重大な事件を理解する上で欠くことのできない、きわめて重要な遺跡である。よって、史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。