国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
三木城跡及び付城跡・土塁
ふりがな
:
みきじょうあとおよびつけじろあと・どるい
三木城二の丸遺跡 航空写真
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
戦国時代
年代
:
西暦
:
面積
:
398957.47 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
39
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2013.03.27(平成25.03.27)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在都道府県
:
兵庫県
所在地(市区町村)
:
兵庫県三木市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
三木城二の丸遺跡 航空写真
解説文:
詳細解説
天正6年(1578)から8年にかけて織田信長と別所(べっしょ)長治(ながはる)の間で行われた三木(みき)合戦(かっせん)に関わる城跡と土塁群。領主の居城と、付城・土塁といった織田方により造られた包囲網を一体として保護する初めての史跡である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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三木城二の丸遺跡 航空写真
平井山ノ上付城跡 航空写真
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三木城二の丸遺跡 航空写真
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平井山ノ上付城跡 航空写真
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解説文
天正6年(1578)から8年にかけて織田信長と別所(べっしょ)長治(ながはる)の間で行われた三木(みき)合戦(かっせん)に関わる城跡と土塁群。領主の居城と、付城・土塁といった織田方により造られた包囲網を一体として保護する初めての史跡である。
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詳細解説
三木城跡は三木市の中央部、美(み)嚢(のう)川(がわ)に面した釜山(かまやま)と呼ばれる丘陵上に立地する城跡である。15世紀末に別所(べっしょ)則治(のりはる)が築城して以来、天正8年(1580)、織田信長による播州攻めにより落城するまでの間、東播磨で最大の勢力を誇った別所氏の居城であった。 天正5年(1577)10月、織田信長は羽柴秀吉に中国の毛利攻めを命じた。別所氏の当主長治は、当初、織田方に味方したが、翌6年3月、秀吉と対立し毛利方となったことにより、播磨全域を舞台とした、いわゆる三木合戦が始まる。合戦は同年7月、神吉(かんき)・志方(しかた)の両城を落とした織田信忠軍が三木に陣を構えたことを契機に、1年半にも及ぶ三木城包囲戦へと移行する。『播州(ばんしゅう)御征伐(ごせいばつ)之(の)事(こと)』(天正年間成立か)によると、織田方は50から60に及ぶ付城と番屋や堀、柵などを設け、三木城への兵糧の搬入を阻止したという。合戦の進行に従い、織田方はこの包囲網を次第に狭め、兵糧が枯渇した別所方は、天正8年1月に秀吉の降伏勧告を受け入れ開城した。 その後、三木城には秀吉により城代が置かれ、天正13年(1585)からの8年間は中川秀政の居城、池田輝正の姫路入封後は池田氏の家老伊木氏が入城するが、元和の一国一城令(1615)により破却されたと考えられている。その間、三木城は何度かの改変を受けたようであるが、昭和56年から断続的に実施されている三木市教育委員会による発掘調査では、堀や礎石建物、備前焼大甕を据え付けた土坑群など、別所氏が統治した時代の遺構が良好な状態で遺存することが明らかになった。また、堀跡からは宴などの場で食されたと考えられる鶴の骨が出土するなど、国人領主の生活を知る上で重要な成果が挙げられている。 三木合戦の際に織田方が築いた付(つけ)城(しろ)については、『別所軍記』(17世紀後半)、『播磨鑑』(宝暦12年 1762)、『播州三木城地図』(天保12年 1841)などに記されている。付城は、三木城を取り囲むように配されており、三木城の北側の丘陵上には、平(ひら)井(い)山(やま)ノ上付城跡をはじめとする10箇所、南側には、西から法(ほう)界(かい)寺(じ)山(やま)ノ上付城跡、高木大塚城跡、高木大山付城跡、シクノ谷峯構付城跡、明石道峯構付城跡、小林八幡神社付城跡などの17箇所が確認されており、そのうち併せて20城が現存している。 平井山ノ上付城跡は天正6年7月に織田信忠により築かれ、後に秀吉の本陣が置かれたと伝えられる付城跡である。三木城の北東約2・8キロメートルの山上に立地し、付城の中でも群を抜く規模を持つ。山頂部に東西に細長い主郭を置き、北斜面には複数の曲輪が展開する。三木城を挟んで平井山の対角の位置にあたる法界山ノ上付城跡は、宮部(みやべ)善祥坊(ぜんしょうぼう)の陣跡と伝えられる。平井山ノ上付城跡に次ぐ規模を持ち、山頂部には周囲を土塁で囲んだ方形の主郭とそれに西接する長方形の曲輪を有する。 また、法界山ノ上付城跡の南東隅から南側の付城を連結する2~4重の土塁が存在する。この土塁は基底部幅4~5メートル、高さ1メートル程度で、総延長は約5.5キロメートル、そのうち2・5キロメートルが遺存している。この土塁は付城と一体となって明石方面からの交通を遮断するために織田方によって築かれ、土塁と土塁の間の空閑地は、織田軍の駐屯地として利用されていたと考えられる。 このように、三木城跡は戦国時代における国人領主の城館のあり方や領主の生活を知る上で重要である。また、三木城跡の周辺には、織田方の付城や土塁が良好な状態で遺存しており、史料に見られる三木合戦の状況を具体的に知ることができる。三木合戦は、後に羽柴秀吉によって、鳥取城や備中高松城などで行われた広範囲に堅固な包囲網を形成させる包囲網戦の最初の例であり、当時の合戦のあり方や展開を知ることができる希有な遺跡である。今回は三木城跡と織田方の本陣が置かれた平井山ノ上付城跡、さらに付城と土塁による包囲網が良好に残る三木城南側の付城跡のうち条件の整った法界寺山ノ上付城跡、高木大塚城跡、高木大山付城跡、シクノ谷峯構付城跡、明石道峯構付城跡、小林八幡神社付城跡と土塁を史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。