国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
三重津海軍所跡
ふりがな
:
みえつかいぐんしょあと
三重津海軍所跡遠景
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
幕末
年代
:
西暦
:
面積
:
29504.39 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
39
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2013.03.27(平成25.03.27)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
2014.10.06(平成26.10.06)
指定基準
:
二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在都道府県
:
佐賀県
所在地(市区町村)
:
佐賀県佐賀市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
三重津海軍所跡遠景
解説文:
詳細解説
三重津海軍所跡は、幕末に佐賀藩が筑後(ちくご)川(がわ)支流沿いに設置した施設で、洋式船による海軍教育が行われたほか、艦船の根拠地及び修船・造船の機能を有した。発掘調査で全国的にも珍しい幕末期の船(せん)渠(きょ)(ドック)が見つかっている。幕末の佐賀藩が目指した近代化の様相を知る上で注目される遺跡である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
添付ファイル
なし
写真一覧
三重津海軍所跡遠景
船渠階段状側壁
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三重津海軍所跡遠景
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船渠階段状側壁
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解説文
三重津海軍所跡は、幕末に佐賀藩が筑後(ちくご)川(がわ)支流沿いに設置した施設で、洋式船による海軍教育が行われたほか、艦船の根拠地及び修船・造船の機能を有した。発掘調査で全国的にも珍しい幕末期の船(せん)渠(きょ)(ドック)が見つかっている。幕末の佐賀藩が目指した近代化の様相を知る上で注目される遺跡である。
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詳細解説
三重津海軍所跡は、幕末に佐賀藩が洋式船による海軍教育を行うとともに、藩の艦船の根拠地として、さらに修船・造船を行う場として機能した施設である。遺跡は、佐賀城跡から南東約5キロメートル、筑後川の支流早津江川(はやつえがわ)の西岸河川敷に立地する。 佐賀藩では、安政2年(1855)に幕府が長崎に海軍伝習所(かいぐんでんしゆうじよ)を開設したことを受け、伝習生を長崎に派遣する一方、藩内の船手(ふねて)に洋式船の運用技術を教育するため、同5年、従来より三重津に設置されていた藩の船屋を拡張し、御船手稽古所を設けた。翌年長崎海軍伝習所の閉鎖に伴い伝習生が帰郷すると、藩内での海軍養成及び艦船運用を本格的に行うようになった。船屋の一角を海軍稽古場として整備し、稽古場や宿舎を設けた。また、早津江川河口が藩所有艦船の係留地となったことから、三重津を艦船運用の根拠地としても整備した。 こうした機能に加え、佐賀藩は三重津に洋式艦船の修理部品の製造等を行う「製作場(せいさくば)」や、修船・造船の際に船を引き入れる「御修覆場(おんしゆうふくば)」等の修船施設を整備していった。記録によれば、「製作場」は蒸気船ボイラーの組立作業を行うため建てたもので、鉄の鍛造、銅製品の補修や生産を行っていたものと考えられる。「修覆場」は、遅くとも文久元年(1861)秋には竣工していたことが確認でき、慶応元年(1865)、国内最初期の実用蒸気船である凌風丸(りようふうまる)が建造された。 海軍所の内部配置を記した「三重津海軍所図」(1920年)によれば、北から順に、役所等がおかれた海軍寮地区、舟入場地区、調練場地区、修船・造船施設が集中していた製罐所(せいかんしょ)・船渠(せんきょ)地区からなっていたと考えられる。海軍所は明治時代初期に閉鎖されたと推測され、その後、明治35年(1902)から昭和8年(1933)まで、商船学校として利用された。平成13年度から堤防改修と公園整備が行われ、今日に至っている。 佐賀市(旧川副町・諸富町)教育委員会では、平成13年度から24年度にかけて海軍所跡の発掘調査・文献調査等を実施した。海軍寮地区では、海軍所以前の船屋の遺構として1間×7間以上の規模の掘立柱建物、土坑、井戸、溝等を検出した。建物基礎は布掘り状で、基礎板材は船材を転用したものである。海軍所時代の遺構として、礎石建物、井戸等を検出した。井戸造成土からは海軍所時代を特徴づける「海」銘磁器碗が出土した。舟入場地区では、19世紀代の遺物を伴う高さ1.5メートル程の堤防盛土が見つかり、海軍所もしくはそれ以前の船屋時期のものと考えられる。調練場地区では、海軍所に伴う竹柵遺構、井戸を検出した。製罐所・船渠地区では、木炭・石炭、鞴羽口(ふいごはぐち)、坩堝(るつぼ)とともに、加熱炉と考えられる金属加工遺構が見つかった。銅を主体とする加工滓(かこうさい)も多数出土し、銅製品の加工を行っていたことも判明した。また、木杭と板を組み合わせた在来の土木工法による船渠側壁の護岸施設が確認された。護岸の一部は、法面の崩落を防ぐため「枠工法」を用いて丸太や板材が枠状に組まれ、階段状になっていた。 このように、三重津海軍所跡は、幕末に佐賀藩が洋式船による海軍教育を行うとともに、艦船の根拠地として、また修船・造船の機能を有した施設であり、船渠や製罐所をはじめとする遺構・遺物が良好に遺存していることが確認された。幕末期における西洋の船舶技術の導入や軍事の展開を知る上で重要である。よって、史跡に指定し保護を図ろうとするものである。
関連情報
指定等後に行った措置
2014.10.06(平成26.10.06)
関連情報
指定等後に行った措置
異動年月日
:
2014.10.06(平成26.10.06)
異動種別1
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追加指定
異動種別2
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異動種別3
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異動内容
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