国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
宮脇廃寺跡
ふりがな
:
みやわきはいじあと
宮脇遺跡(全景)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
室町
年代
:
西暦
:
面積
:
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
30
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2014.03.18(平成26.03.18)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
三.社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡
所在都道府県
:
福島県
所在地(市区町村)
:
福島県伊達市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
宮脇遺跡(全景)
解説文:
詳細解説
阿武隈山地の北西端付近,伊達市霊山町大石に所在する15世紀前半に創建され,15世紀中頃に焼失した寺院跡。平成18年度から行われた発掘調査により,寺跡の範囲や内容が明らかになった。
寺跡は,伊達氏の本拠地である梁川から,霊山(りょうぜん)へと向かう街道に面した狭隘な谷筋に立地する。池を中心に建てられた2棟の礎石建物が確認されている。いずれの建物も保存状態は良好であり,池にせり出して造られた礎石建物は仏堂と考えられ、四面に縁が巡る総瓦葺である。池に浮かび上がる仏堂の様を演出したと考えられ,北山文化の影響が想定される。また,出土した軒平瓦の大半を占める半截菊花文軒平瓦(はんさいきっかもんのきひらがわら)は,京都相国寺(しょうこくじ),鹿苑寺(ろくおんじ)(金閣寺),栃木県足利市樺崎寺(かばざきでら),鎌倉のものと共通する。
室町幕府と鎌倉府とが対立した時期,伊達氏は幕府方として行動したことが史料から知られるが,宮脇廃寺跡の遺構や出土瓦は,幕府と伊達氏との結びつきを考古学的にも証明する遺物として注目される。北山文化の東北への伝播を知る上でも重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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宮脇遺跡(全景)
宮脇廃寺跡(1号礎石建物跡)
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宮脇遺跡(全景)
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宮脇廃寺跡(1号礎石建物跡)
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解説文
阿武隈山地の北西端付近,伊達市霊山町大石に所在する15世紀前半に創建され,15世紀中頃に焼失した寺院跡。平成18年度から行われた発掘調査により,寺跡の範囲や内容が明らかになった。 寺跡は,伊達氏の本拠地である梁川から,霊山(りょうぜん)へと向かう街道に面した狭隘な谷筋に立地する。池を中心に建てられた2棟の礎石建物が確認されている。いずれの建物も保存状態は良好であり,池にせり出して造られた礎石建物は仏堂と考えられ、四面に縁が巡る総瓦葺である。池に浮かび上がる仏堂の様を演出したと考えられ,北山文化の影響が想定される。また,出土した軒平瓦の大半を占める半截菊花文軒平瓦(はんさいきっかもんのきひらがわら)は,京都相国寺(しょうこくじ),鹿苑寺(ろくおんじ)(金閣寺),栃木県足利市樺崎寺(かばざきでら),鎌倉のものと共通する。 室町幕府と鎌倉府とが対立した時期,伊達氏は幕府方として行動したことが史料から知られるが,宮脇廃寺跡の遺構や出土瓦は,幕府と伊達氏との結びつきを考古学的にも証明する遺物として注目される。北山文化の東北への伝播を知る上でも重要である。
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詳細解説
宮脇廃寺跡(みやわきはいじあと)は、阿武隈(あぶくま)山地の北西端付近、伊達市霊山(りょうぜん)町大石の標高約135mの谷筋に所在する15世紀前半に創建され、15世紀中頃に焼失した寺院跡である。この寺跡は、中世に当地域を治めた伊達氏の本城である梁川城(やながわじょう)から、霊山へと向かう街道に面した狭隘な谷筋に立地しており、街道の沿線には霊山に関する伝承や坊院地名等が残る。 この寺跡は、地元では早くから存在が知られていたようであるが、発掘調査は、地元の有志によって結成された霊山町郷土史研究会の要請を受け、平成18年度に伊達市教育委員会が実施したのが最初である。それ以後、平成23年度に至るまで6回にわたって行われた発掘調査により、寺跡の範囲や内容が明らかになった。 検出された遺構は、池を中心として造られた2棟の礎石建物であり、いずれも良好な状態で遺存している。池は、谷上部に設けられた貯水施設から、谷の中央部を北から南へ流れ、池の北東隅に接続する水路と、谷の西側を流れ、北西隅に接続する水路によって導水され、池南西隅から排水されていたと考えられる。池の北側は2号礎石建物の基壇が汀線となっており、池の北西には景石と考えられる大型の自然石が配されている。また、池の埋土が砂であることから、常時、一定の水流があったと考えられる。 1号礎石建物は、南北3間、東西5間の池に向かって南面する建物で、四面に縁が巡る。また、南北及び西側に石組み側溝が巡る。この建物の周囲からは、天目茶碗や風炉等の茶道具が出土していることから、客殿的な性格が考えられる。 2号礎石建物は、南北5間、東西4間で、四面に縁が巡る総瓦葺の東面する建物である。基壇を有し、その東面及び南面が池に接していることから、池に浮かび上がる仏堂の様を演出したと考えられる。また、出土した軒平瓦の大半を占める半截菊花文(はんさいきっかもん)軒平瓦は、京都相国寺(しょうこくじ)、鹿苑寺(ろくおんじ)や栃木県足利市樺崎寺等、室町幕府や足利氏ゆかりの寺院と、伊達五山の筆頭寺院である東昌寺(とうしょうじ)跡と考えられる伊達市茶臼山西遺跡等、伊達氏関連の寺院でしか出土しない極めて特殊なものである。 天和3年(1683)に伊達綱村に提出された『輪王系譜』の「輪王開基蘭庭禅尼伝(りんのうかいきらんていぜんにでん)」には、伊達氏9代当主、政宗の夫人が足利義満の叔母であったとあるように、伊達氏は室町幕府と強い結びつきがあったことが知られ、応永7年から9年(1400~1402)にかけては、室町幕府と対立関係にあった鎌倉公方足利満兼(みつかね)とその弟の満貞(みつさだ)、満直(みつなお)から白川結城氏に対し、伊達政宗討伐を命じた書状が発給されている。 このことと、宮脇廃寺跡を始めとする伊達氏の本拠地からの半截菊花文軒平瓦の出土は、史料から窺われる室町幕府と伊達氏との結びつきを考古学的にも証明する遺物として注目される。また、池を中心とした建物遺構と池にせり出した仏堂のあり方は、鹿苑寺に代表される北山文化の影響が考えられる。 さらに、寛文5年(1665)成立の『奥州伊達郡東根南岳山霊山寺山王院縁起(ひがしねなんがくさんりょうぜんじさんのういんえんぎ)』によると、南北朝の動乱で焼失した霊山寺を応永8年(1401)に伊達氏が再興したとある。宮脇廃寺の創建時期がこの記事と合致し、出土瓦から造営者が伊達氏と考えられることから、宮脇廃寺をこの時の霊山寺に充てる見方もある。 このように、宮脇廃寺跡は室町時代の伽藍が良好に残っているだけでなく、遺構や出土遺物から、京都とのつながりが認められる等、史料に見える室町幕府と伊達氏との関係を具体的に示す寺跡であり、北山文化の東北への伝播を知る上でも重要である。 よって史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。