国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
流廃寺跡
ふりがな
:
ながれはいじあと
1.流廃寺跡(7号平場の礎石)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
平安
年代
:
西暦
:
面積
:
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
30
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2014.03.18(平成26.03.18)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
三.社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡
所在都道府県
:
福島県
所在地(市区町村)
:
福島県東白川郡棚倉町
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
1.流廃寺跡(7号平場の礎石)
解説文:
詳細解説
阿武隈(あぶくま)高地の南端の丘陵上に立地する9世紀後半創建,10世紀中頃に広範囲に及ぶ火災により廃絶した山林寺院跡(さんりんじいんあと)。平成4年から実施された発掘調査の結果,ほぼ一本の尾根筋に沿って並列する13箇所の人工的な平坦地と9棟の礎石建物等が極めて良好な状態で検出された。
検出された建物には,伽藍の中心を構成すると考えられる大規模な建物と,小規模な建物があるが,いずれもそれぞれ独立した平坦地や緩斜面に建てられている。そして,これらの平坦地を結ぶ通路や階段が検出されたことにより,伽藍内の導線を復元することができる。
また踏査で発見された,刀身に梵字と炎状の文様を交互に配する金銀象嵌鉄剣(きんぎんぞうがんてっけん)は,不動明王像所持の剣か,僧や修験者が所持した剣と考えられ,明治時代に採集された銅製三鈷杵(さんこしょ)とともに,流廃寺が密教的な性格を有していたことを示す遺物として注目される。
平安時代の山林寺院の伽藍のあり方や密教の伝播を知る上でも重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
1.流廃寺跡(7号平場の礎石)
流廃寺跡(礎石検出状況)
写真一覧
1.流廃寺跡(7号平場の礎石)
写真一覧
流廃寺跡(礎石検出状況)
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解説文
阿武隈(あぶくま)高地の南端の丘陵上に立地する9世紀後半創建,10世紀中頃に広範囲に及ぶ火災により廃絶した山林寺院跡(さんりんじいんあと)。平成4年から実施された発掘調査の結果,ほぼ一本の尾根筋に沿って並列する13箇所の人工的な平坦地と9棟の礎石建物等が極めて良好な状態で検出された。 検出された建物には,伽藍の中心を構成すると考えられる大規模な建物と,小規模な建物があるが,いずれもそれぞれ独立した平坦地や緩斜面に建てられている。そして,これらの平坦地を結ぶ通路や階段が検出されたことにより,伽藍内の導線を復元することができる。 また踏査で発見された,刀身に梵字と炎状の文様を交互に配する金銀象嵌鉄剣(きんぎんぞうがんてっけん)は,不動明王像所持の剣か,僧や修験者が所持した剣と考えられ,明治時代に採集された銅製三鈷杵(さんこしょ)とともに,流廃寺が密教的な性格を有していたことを示す遺物として注目される。 平安時代の山林寺院の伽藍のあり方や密教の伝播を知る上でも重要である。
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詳細解説
流廃寺跡(ながれはいじあと)は、阿武隈高地の南端の標高約310m、平地との比高差約80mの丘陵上に立地する山林寺院である。出土遺物から創建時期は、9世紀後半と考えられ、10世紀中頃に火災により焼失したと考えられている。この寺跡が所在する棚倉町は、茨城県と栃木県に接しており、『日本後紀』弘仁2年(811)に見える東山道松田駅から常陸国へと向かう道路は、この地域を通過していたと考えられる等、古代から関東と東北とを結ぶ交通の要衝であった。 流廃寺跡は明治時代に瓦や密教法具が出土したことにより、存在が知られるようになった。昭和49年には棚倉町史編纂事業の一環として発掘調査が行われ、平成4年からは遺跡の範囲や内容を確認するための発掘調査が棚倉町教育委員会によって実施された。 その結果、北東から南西方向の尾根筋上の東西約300m、南北約250mの範囲で、並列する13箇所の人工的な平坦地と9棟の礎石建物等が極めて良好な状態で検出されている。これらの建物は、それぞれ独立した平坦地あるいは緩斜面に建てられており、これらの平坦地を結ぶ通路や階段が検出されたことにより伽藍内の導線を復元することができる。伽藍の中央付近の尾根稜線上からやや下った南斜面を造成して建てられたSBO1は本堂と考えられ、四方に廂を持つ東西5間(22.5m)、南北4間(23m 孫廂部分を含む)の礎石建物である。南側にはさらに孫廂がつく東西棟で、この建物の周囲からは、多量の瓦が出土していることから、この寺の中で唯一の瓦葺きであったと考えられる。 この建物の西側約40mの地点の尾根上では、東西9間(21.5m)、南北3間(8m)の南側が懸造りとなる礎石建物SBO2があり、さらにそこから南西約15mの地点には、南北7間(14.7m)、東西2間(4.8m)の礎石建物SBO3がある。この3棟の建物は、通路と階段によって結ばれており、部分的に路面に石を敷いている箇所も認められる。 この他の建物は、2間から3間程度の小規模なものであるが、これらの建物には、斜面を造成し平坦面を造り出した後に建てられたものと、緩斜面に懸造りで建てられたものとがある。これらの中で、伽藍の北端で検出された大規模な造成を伴う建物跡付近からは、平成5年度に実施された分布調査で、金銀象嵌鉄剣が採集された。この鉄剣は、全長43.4cm、刀身に梵字と炎状の文様を交互に配する。不動明王像所持の剣か、僧や修験者が所持した剣と考えられ、明治時代に採集された銅製三鈷(どうせいさんこ)杵(しょ)(現存せず)とともに、流廃寺が密教的な性格を有していたことを示す遺物として注目される。また、この建物のほぼ中央では、大形の石を3個、L字形に床面に埋め込んだ配石遺構が検出されている。この中央で焼土の堆積が認められたこと、また、遺構の埋土上面から、伏せられた状態で複数の土師器杯が出土していること、先の鉄剣が出土したことから、建物の規模こそ小さいものの、この建物は、流廃寺の中でも特殊な儀式の場として機能していた可能性が考えられる。 鉄剣以外の出土遺物には、瓦と土師器、鉄釘等がある。土師器は杯が多数を占め、その他の器種が乏しいという傾向があり、杯は各平坦面の整地土中や建物の覆土からまとまって出土している。 また、発掘された9棟の建物のほとんどから、炭化材や焼土の出土や被熱した礎石や土器等が認められることから、流廃寺は10世紀中頃に広範囲に及ぶ火災により廃絶したと考えられる。 このように流廃寺跡は、福島県を代表する初期山林寺院であり、存続時期が9世紀後半から10世紀中頃と短く、後世の改変を受けることなく、当時の伽藍の状況を良好に留める希有な例であり、平安時代の山林寺院の伽藍のあり方を知る上で、全国的にも重要な寺院である。また、出土した金銀象嵌鉄剣や、出土が伝えられる銅製三鈷杵から、密教的性格を有した寺院であると考えられ、密教の東北への伝播を知る上でも重要である。よって史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。