国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
唐沢山城跡
ふりがな
:
からさわやまじょうあと
唐沢山城跡(本丸周辺の高石垣)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
室町・戦国
年代
:
西暦
:
面積
:
1941896.86 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
30
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2014.03.18(平成26.03.18)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在都道府県
:
栃木県
所在地(市区町村)
:
栃木県佐野市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
唐沢山城跡(本丸周辺の高石垣)
解説文:
詳細解説
佐野市街地の北方に位置する唐沢山山頂を主郭として,一帯に曲輪を配する山城。広大な城域を有し,山頂部には関東では数少ない織豊期(しょくほうき)の高石垣があり,山麓部には領主居館跡をはじめとする居館跡群が良好な状態で残る。
史料からは,15世紀後半には既に存在していたこと,また,境目の城として,関東管領と古河公方(こがくぼう)の抗争以来,戦国時代を通じて,北条氏と上杉氏の抗争等の舞台となっていることが知られる。また,天正20年(1592)豊臣秀吉の家臣の子富田信種(佐野信吉)が,天徳寺宝衍(てんとくじほうえん)(佐野房綱)の養子になったことを契機に,織豊系城郭として整備されたと考えられる。慶長年間に信吉が,現在の佐野市街地にある佐野城へと本城を移したことにより廃城となった。
遺構は山頂部から山麓まで広域に残っており,山頂部には織豊期に整備された高石垣,山腹には中世山城として機能していた頃の曲輪や堀切,山麓には大規模な堀や土塁を伴う複数の屋敷跡が極めて良好に残る。中世山城として機能していた段階から,何度かの改変を経て,織豊系城郭として整備されるまでの過程を読み取ることができるなど,中世城館の変遷を知る上で重要な城跡。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
唐沢山城跡(本丸周辺の高石垣)
唐沢山城跡(土矢蔵の石垣)
唐沢山城跡(千騎口)
唐沢山城跡(出土かわらけ)
写真一覧
唐沢山城跡(本丸周辺の高石垣)
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唐沢山城跡(土矢蔵の石垣)
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唐沢山城跡(千騎口)
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唐沢山城跡(出土かわらけ)
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解説文
佐野市街地の北方に位置する唐沢山山頂を主郭として,一帯に曲輪を配する山城。広大な城域を有し,山頂部には関東では数少ない織豊期(しょくほうき)の高石垣があり,山麓部には領主居館跡をはじめとする居館跡群が良好な状態で残る。 史料からは,15世紀後半には既に存在していたこと,また,境目の城として,関東管領と古河公方(こがくぼう)の抗争以来,戦国時代を通じて,北条氏と上杉氏の抗争等の舞台となっていることが知られる。また,天正20年(1592)豊臣秀吉の家臣の子富田信種(佐野信吉)が,天徳寺宝衍(てんとくじほうえん)(佐野房綱)の養子になったことを契機に,織豊系城郭として整備されたと考えられる。慶長年間に信吉が,現在の佐野市街地にある佐野城へと本城を移したことにより廃城となった。 遺構は山頂部から山麓まで広域に残っており,山頂部には織豊期に整備された高石垣,山腹には中世山城として機能していた頃の曲輪や堀切,山麓には大規模な堀や土塁を伴う複数の屋敷跡が極めて良好に残る。中世山城として機能していた段階から,何度かの改変を経て,織豊系城郭として整備されるまでの過程を読み取ることができるなど,中世城館の変遷を知る上で重要な城跡。
詳細解説▶
詳細解説
唐沢山城跡(からさわやまじょうあと)は、佐野市街地の北方約4kmに位置する標高242mの唐沢山山頂を主郭として、一帯に曲輪(くるわ)を配する山城である。2k㎡を超える広大な城域を有し、山頂部には関東では数少ない織豊期の高石垣があり、山麓部には領主居館跡をはじめとする居館群跡が良好な状態で残る。 この城は、藤原秀郷の末裔を名乗る佐野氏により築城されたと考えられ、上野国長楽寺の僧松陰が、享徳の乱(1455~1483)における体験を記した『松陰私語(しょういんしご)』の文明3年(1471)の記事に「天命之上之山(てんみょうのかみのやま)佐野城」と見えるのが、史料上の初見である。これは発掘調査結果から推定される築城時期とも合致している。唐沢山城が所在する佐野は交通上の要衝の地であり、戦国時代にはしばしば北条氏と越後の上杉氏との抗争の舞台となった。一時、上杉軍が駐留した時期があり、天正13年(1585)頃には、北条氏忠(うじただ)が入城し佐野氏を名乗った。こうした中で、佐野氏に加えて一部には上杉氏、北条氏の手も入って城郭としての拡大と整備が進められたと考えられる。天正18年の小田原合戦では豊臣秀吉と親交があった、天徳寺宝衍(てんとくじほうえん)がこの城を奪回し、佐野房綱を名乗り、天正20年(1592)豊臣秀吉の家臣富田知信の子信種(佐野信吉)を、房綱の養子として迎え入れることを契機に、主郭を中心に認められる高石垣の設置等、織豊系城郭として整備されたと考えられる。そして、秀吉死後の慶長年間に信吉が、現在の佐野市街地にある佐野城へと本城を移したことにより、唐沢山城は廃城となった。 遺構は山頂から山麓まで広域に残っており、これらは中世山城として機能していた段階のものと、織豊系城郭として整備された段階のものがある。平成19年度から24年度にかけて佐野市教育委員会によって行われた測量及び縄張り調査と西山麓の発掘調査により、山腹部分にも複数の曲輪や堀割(ほりわり)が存在することが明らかになった。 山頂部には、主郭を中心に同心円状に曲輪が配されている。石垣は最大で高さ8m、チャートの割石を用いている。織豊期のものと考えられ、虎口(こぐち)には鏡石が用いられている。主郭から北西約390mの尾根稜線上にも、石垣を伴う曲輪が認められるが、石材の大きさや積み方から、主郭のものよりも先行する石垣と考えられる。 また、尾根稜線上には、複数地点で掘割(ほりわり)が認められるが、これらは山麓部から伸びる城道が稜線上に到達した地点に設けられている傾向が認められるとともに、城域を画する堀割は大規模で、竪堀(たてぼり)と連結することにより防御性を高めている。これらの遺構は、織豊系城郭に整備される以前のものと考えられ、中世山城としての唐沢山城の範囲や縄張りを示している。 山麓部には複数の屋敷跡が良好な状態で残っている。これらの屋敷地の区画は、江戸時代の絵図からその概要が判明するが、現在でも土塁や堀の痕跡が良好に残っており、屋敷地の配置や規模が判明する。発掘調査の結果、これらの多くは16世紀代のものと考えられるが、出土遺物には13世紀に遡るものが存在すること等が明らかになった。また、数回にわたる造成が認められる屋敷地も確認されていることから、唐沢山城築城後、再三にわたる改変を経て、現在の状況になったと考えられる。 このように、唐沢山城は関東でも有数の大規模な山城であるとともに、織豊系城郭として整備された数少ない城である。また、山頂部の石垣から山麓部の居館をはじめとする遺構の保存状態は極めて良好であるとともに、築城から廃城に至るまでの城郭の変遷を知ることができる等、中世城館の展開を知る上でも重要である。 よって、史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。