国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
恒川官衙遺跡
ふりがな
:
ごんがかんがいせき
恒川官衙遺跡(遠景北西から)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
奈良・平安
年代
:
西暦
:
面積
:
40202.15 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
30
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2014.03.18(平成26.03.18)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
2016.10.03(平成28.10.03)
指定基準
:
二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在都道府県
:
長野県
所在地(市区町村)
:
長野県飯田市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
恒川官衙遺跡(遠景北西から)
解説文:
詳細解説
長野県南部の伊那谷の南に位置する,標高420~438mの比較的平坦な低位段丘上に所在する。この遺跡の発掘調査は,昭和52年から始められ,奈良・平安時代の官衙的性格を有する遺跡として注目された。飯田市教育委員会では,この遺跡の重要性に鑑み,昭和58年から74次にわたり,遺跡の範囲と内容を確認するための発掘調査等を実施してきた。
その結果,正倉,正倉区画溝,郡衙の北限とみられる溝,祭祀跡などの諸遺構を検出した。正倉区画溝は,北東側は未確認であるが,長辺215m,短辺150mで,北側にある高岡第1号古墳を避けて台形を呈し,内側の遺構はⅠ期が7世紀後半,Ⅱ期が8世紀前半,Ⅲ期が8世紀後半から9世紀代,Ⅳ期が9世紀末から10世紀前半の4期にわたって変遷をしていた。一方,正倉域から南西250mのところに,「恒川(ごんがわ)清水(しみず)」と呼ばれている地点がある。周辺からは,祭祀遺物の出土が確認され,律令的な祭祀がおこなわれたとみなされている。ちなみに当地は現在においても,地域住民によってお祭りがおこなわれている。
出土遺物としては,多数の土器,和同開珎(わどうかいちん)銀(ぎん)銭(せん),緑釉(りょくゆう)陶器(とうき),中でも陶(とう)硯(けん)の存在が注目され,祭祀跡からは,人形(ひとがた),馬形(うまがた),斎(い)串(ぐし)などが出土している。
恒川官衙遺跡は,確認された遺構や遺物のあり方,文献史料等から,伊那郡衙(いなぐんが)(郡家(ぐうけ))の可能性が高い重要な遺跡である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
添付ファイル
なし
写真一覧
恒川官衙遺跡(遠景北西から)
恒川官衙遺跡(掘立柱建物)
恒川官衙遺跡(恒川清水)
恒川官衙遺跡(出土した陶硯)
恒川官衙遺跡(祭祀遺物)
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恒川官衙遺跡(遠景北西から)
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恒川官衙遺跡(掘立柱建物)
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恒川官衙遺跡(恒川清水)
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恒川官衙遺跡(出土した陶硯)
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恒川官衙遺跡(祭祀遺物)
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解説文
長野県南部の伊那谷の南に位置する,標高420~438mの比較的平坦な低位段丘上に所在する。この遺跡の発掘調査は,昭和52年から始められ,奈良・平安時代の官衙的性格を有する遺跡として注目された。飯田市教育委員会では,この遺跡の重要性に鑑み,昭和58年から74次にわたり,遺跡の範囲と内容を確認するための発掘調査等を実施してきた。 その結果,正倉,正倉区画溝,郡衙の北限とみられる溝,祭祀跡などの諸遺構を検出した。正倉区画溝は,北東側は未確認であるが,長辺215m,短辺150mで,北側にある高岡第1号古墳を避けて台形を呈し,内側の遺構はⅠ期が7世紀後半,Ⅱ期が8世紀前半,Ⅲ期が8世紀後半から9世紀代,Ⅳ期が9世紀末から10世紀前半の4期にわたって変遷をしていた。一方,正倉域から南西250mのところに,「恒川(ごんがわ)清水(しみず)」と呼ばれている地点がある。周辺からは,祭祀遺物の出土が確認され,律令的な祭祀がおこなわれたとみなされている。ちなみに当地は現在においても,地域住民によってお祭りがおこなわれている。 出土遺物としては,多数の土器,和同開珎(わどうかいちん)銀(ぎん)銭(せん),緑釉(りょくゆう)陶器(とうき),中でも陶(とう)硯(けん)の存在が注目され,祭祀跡からは,人形(ひとがた),馬形(うまがた),斎(い)串(ぐし)などが出土している。 恒川官衙遺跡は,確認された遺構や遺物のあり方,文献史料等から,伊那郡衙(いなぐんが)(郡家(ぐうけ))の可能性が高い重要な遺跡である。
詳細解説▶
詳細解説
恒川官衙遺跡(ごんがかんがいせき)は、長野県南部の伊那谷(いなだに)の南に位置する、標高420~438mの比較的平坦な低位段丘上に所在する。この遺跡は、古代においては信濃国十郡のうちの伊那郡に含まれ、藤原宮出土木簡などにも伊那郡の前身である「伊那評」の記載がみられる。 本遺跡の発掘調査は、昭和52年の国道153号線バイパス建設に先立ち行われ、縄文時代から近世にかけての遺構・遺物が多数検出された。なかでも、奈良・平安時代では、遺構として掘立柱建物、遺物として和銅開珎銀銭、多数の陶硯(とうけん)や緑釉陶器(りょくゆうとうき)などが検出され、官衙的性格を有することが注目された。飯田市教育委員会では、この遺跡の重要性に鑑み、昭和58年から70次を超える遺跡の範囲と内容を確認するための発掘調査を実施してきた。 その結果、正倉(しょうそう)、正倉区画溝、官衙の北限とみられる溝、官衙に関係する諸遺構、祭祀遺構などの存在が明らかになったが、郡庁に関わる施設は、これまでの調査で確認できていない。 遺跡は、Ⅰ期が7世紀後半、Ⅱ期が8世紀前半、Ⅲ期が8世紀後半から9世紀代、Ⅳ期が9世紀末から10世紀前半の4期にわたり変遷した。Ⅰ期は、本格的な正倉の成立以前で規模は、小さかったと考えられる。Ⅱ期は計画的な造営が認められる段階で、正倉区画溝については、北東側で未確認ではあるが、長辺215m、短辺150mで、北側にある高岡第1号古墳を避けて台形を呈し、桁行4間、梁行3間の総柱掘立柱建物がほぼ等間隔で直列に配置される。Ⅲ期は、掘立柱建物と同じ場所に礎石建物が造られたが、礎石が抜き取られている等明確ではない。また、瓦の出土も確認され、瓦葺きの倉庫の可能性がある。Ⅳ期は、Ⅱ・Ⅲ期のような規則的な建物配置は認められなくなり、区画溝も確認されていない。 一方、正倉域から南西250mのところに、「恒川清水(ごんがわしみず)」と呼ばれている地点がある。 周辺からは、人形(ひとがた)、馬形(うまがた)、斎串(いぐし)など奈良時代の遺物も出土し、律令的な祭祀がおこなわれたことが考えられる。ちなみに、当地には秋葉信仰の石碑があり、現在においても地域住民による祭りがおこなわれている。 出土遺物としては、奈良三彩や、畿内系土師器など多数の土器、中でも陶硯の存在が注目される。この遺跡からは、圏足硯(けんそくけん)を主体とする専用硯が多数出土しており、長野県内の専用硯の約25%を占めるに至っている。時期としては8世紀が中心で、9世紀には減少している。墨書土器の出土も顕著で、「厨(くりや)」「官」等の記されたものが検出されている。また、正倉を区画する溝からは軒丸瓦、軒平瓦、平瓦、丸瓦などが出土しており、正倉は瓦葺であったことが示唆される。さらに、炭化米も出土し、籾殻のついた稲籾の塊(頴稲)、籾殻が付着しない握り飯状の塊の2種類が存在し、後者については、糒(ほしいい)の可能性が考えられている。これら放射性炭素年代測定法を実施したところ、7世紀後半とされたものがある。 このように、恒川官衙遺跡は確認された遺構や遺物のあり方、文献史料等から、伊那郡衙(ぐんが)(郡家(ぐうけ))の可能性が高い遺跡であり、古代国家の地方支配の実態を具体的に知る上でも重要である。よって、史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。
関連情報
指定等後に行った措置
2016.10.03(平成28.10.03)
関連情報
指定等後に行った措置
異動年月日
:
2016.10.03(平成28.10.03)
異動種別1
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追加指定
異動種別2
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異動種別3
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異動内容
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