国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
島原藩主深溝松平家墓所
ふりがな
:
しまばらはんしゅふこうずまつだいらけぼしょ
島原藩主深溝松平家墓所(東廟所)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
江戸
年代
:
西暦
:
面積
:
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
30
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2014.03.18(平成26.03.18)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
七.墳墓及び碑
所在都道府県
:
愛知県
所在地(市区町村)
:
愛知県額田郡幸田町
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
島原藩主深溝松平家墓所(東廟所)
解説文:
詳細解説
島原藩主深溝松平家墓所は,戦国時代に分立した松平氏の一家で,江戸時代に十八松平と称された深溝松平家の墓所である。菩提寺である瑞雲山本光寺(ずいうんざんほんこうじ)と東西の廟所からなる。
深溝松平家は初代忠定(たださだ)が深溝の地を本拠としたことに始まり,4代家忠(いえただ)の時,家康の関東移封に従って深溝を離れるが,5代忠利(ただとし)は,慶長6年(1601)に1万石の大名として三河に戻り,5代忠利から17代忠愛(ただちか)までの13名と明治以降の18代・19代が死没地の何処かにかかわらず,深溝の本光寺に埋葬された。深溝への遺骸の埋葬は,5代忠利の遺命と伝承されている。6代忠房(ただふさ)は寛文9年(1669),肥前島原に転封となった。西廟所の中央に初代から4代までの墓地が置かれ,その東側に5代忠利の肖影堂(しょうえいどう)が建つ。忠房の世子好房の逝去にあたり,吉田神道を崇敬する忠房夫妻によって,神殿型の墓標が西廟所に建設され,以後,歴代当主の墓標形式となった。
6代忠房の正室永春院の逝去を契機に,新たに東廟所が造営される。そこには,西廟所に埋葬された11代忠恕(ただひろ)を除く19代までの当主が埋葬されている。7代忠雄(ただお)墓所の発掘調査で下部構造も明らかとされ,棺内及び棺と石室の間から太刀やガラス杯・銀製香道具等の豊富な副葬品が出土した。
島原藩主深溝松平家墓所は,神殿型の墓標を採用し,墳墓の地に継続して埋葬するという特徴を有しており,大名家の葬送儀礼のあり方を考えるうえで極めて重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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島原藩主深溝松平家墓所(東廟所)
島原藩主深溝松平家墓所(松平忠雄墓所)
原藩主深溝松平家墓所(西廟所家臣墓標群)
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島原藩主深溝松平家墓所(東廟所)
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島原藩主深溝松平家墓所(松平忠雄墓所)
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原藩主深溝松平家墓所(西廟所家臣墓標群)
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解説文
島原藩主深溝松平家墓所は,戦国時代に分立した松平氏の一家で,江戸時代に十八松平と称された深溝松平家の墓所である。菩提寺である瑞雲山本光寺(ずいうんざんほんこうじ)と東西の廟所からなる。 深溝松平家は初代忠定(たださだ)が深溝の地を本拠としたことに始まり,4代家忠(いえただ)の時,家康の関東移封に従って深溝を離れるが,5代忠利(ただとし)は,慶長6年(1601)に1万石の大名として三河に戻り,5代忠利から17代忠愛(ただちか)までの13名と明治以降の18代・19代が死没地の何処かにかかわらず,深溝の本光寺に埋葬された。深溝への遺骸の埋葬は,5代忠利の遺命と伝承されている。6代忠房(ただふさ)は寛文9年(1669),肥前島原に転封となった。西廟所の中央に初代から4代までの墓地が置かれ,その東側に5代忠利の肖影堂(しょうえいどう)が建つ。忠房の世子好房の逝去にあたり,吉田神道を崇敬する忠房夫妻によって,神殿型の墓標が西廟所に建設され,以後,歴代当主の墓標形式となった。 6代忠房の正室永春院の逝去を契機に,新たに東廟所が造営される。そこには,西廟所に埋葬された11代忠恕(ただひろ)を除く19代までの当主が埋葬されている。7代忠雄(ただお)墓所の発掘調査で下部構造も明らかとされ,棺内及び棺と石室の間から太刀やガラス杯・銀製香道具等の豊富な副葬品が出土した。 島原藩主深溝松平家墓所は,神殿型の墓標を採用し,墳墓の地に継続して埋葬するという特徴を有しており,大名家の葬送儀礼のあり方を考えるうえで極めて重要である。
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詳細解説
島原藩主深溝松平家墓所は、戦国時代に分立した松平氏の一家で、江戸時代に十八松平と称された深溝松平家の墓所である。菩提寺(ぼだいじ)である瑞雲山本光寺(ずいうんざんほんこうじ)と東西の廟所からなる。 深溝松平家は初代忠定(たださだ)が三河の現幸田町南東端に位置する深溝の地を本拠としたことに始まり、4代家忠(いえただ)の時、家康の関東移封(天正18年〈1590〉)に従って深溝を離れるが、5代忠利(ただとし)は、慶長6年(1601)に1万石の大名として深溝に戻り、5代忠利から17代忠愛(ただちか)までの13名が死没地の何処かにかかわらず、深溝の本光寺に埋葬された。深溝松平家当主の深溝本光寺への埋葬は明治以降も継続する。忠利が深溝を領したのはわずか12年間であったが、深溝は「墳墓之地(ふんぼのち)」として重視され、近世大名家墓所としては特異なあり方を示している。深溝への遺骸の埋葬は、5代忠利の遺命と伝承されている(『深溝誌』文久2年〈1862〉)。 当初、本光寺は現在地の西方約1kmの字(あざ)向野にあったとされ、いつ現在地に遷ったか定かではないが、慶長17年(1612)、忠利が三河吉田に転封されたのに伴い、本光寺は瑞渓山源光寺(ずいけいざんげんこうじ)と改称された。6代忠房(ただふさ)は寛文9年(1669)肥前島原に転封となり、寛文13年(1673)源光寺を本光寺と改称するとともに、別に島原に建立した本光寺の末寺と定めている。旧本堂の確認調査によれば18世紀中葉以前に基壇が拡張されていることが想定された。 西廟所の中央に初代から4代までの墓標が置かれ、その東側に5代忠利の肖影堂(しょうえいどう)が建つ。肖影堂の北に建つ亀形の台石(亀趺)を有する祖宗紀功碑(そそうきこうひ)は寛文12年(1672)に6代忠房によって建設されたものである。廟所の西側には一族の墓標が並んでいる。忠房の島原転封の準備の最中、世子(せいし)好房(よしふさ)の逝去に遭遇する。忠房夫妻は吉田神道を崇敬し、神殿型の墓標を西廟所西側に建設した。神殿型の墓標は以後、歴代当主の墓標形式となった。 6代忠房の室(しつ)(永春院)の逝去を契機に新たに東廟所が造営される。東廟所は全体を石垣と築地塀が囲み、正面に薬医門が建つ。手前(西側)の平坦面に対し、奥側は1.5m程高い段となっている。下段北側、永春院の墓所をはさんで向かって右手に6代忠房、左手に7代忠雄墓所があり、以後、11代忠恕(ただひろ)を除く19代までの当主が埋葬された(忠恕は西廟所の肖影堂西脇に埋葬)。計14基の神殿型の墓標はそれぞれが石造の玉垣で囲まれ、石四半敷の前庭を有し、その前面に一対の石燈籠が配置されている。上段は13代忠侯(ただよし)の墓から始まり、墓所は次第に拡大していったものと推定される。 7代忠雄(ただお)墓所の災害復旧に伴う調査により下部構造も明らかとなった(忠雄は江戸で逝去)。玉垣に囲まれた花崗岩製の神殿は二重基壇の上に建ち、神殿内部の木製厨子のなかに、白木の位牌が納められている。神殿の基壇をはずすと神殿の沈下を防止するための基礎石(角柱)が置かれ、地表下約1.9mから下に雲母片岩による石室が構築されていた。墓坑は1辺2.5mの方形で、地表下約3.4mまで掘られていた。平面六角形の木棺に遺骸が埋葬され、棺内からは棺の製作に用いられた鉄釘のほか、太刀・細太刀・鏡・石帯・錫製鋺等が出土し、棺と石室の間からはガラス杯・銀製香道具・印籠・蒔絵(まきえ)化粧道具等の副葬品が出土した。それらは石灰と木炭によって埋められ、石蓋(墓誌)によって封じられていた。 このように島原藩主深溝松平家墓所は歴代の深溝松平家当主が神殿型の墓標を採用し、「墳墓之地」の菩提寺に継続して埋葬されるという、他の近世大名家墓所とは異なる特徴を有している。大名家の葬送儀礼のあり方を考えるうえで重要であることから、史跡に指定し、保護の万全を図るものである。