国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
中須東原遺跡
ふりがな
:
なかずひがしはらいせき
中須東原遺跡(空中写真)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
中世
年代
:
西暦
:
面積
:
41599.0 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
30
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2014.03.18(平成26.03.18)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
2016.03.01(平成28.03.01)
指定基準
:
一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡,六.交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設その他経済・生産活動に関する遺跡
所在都道府県
:
島根県
所在地(市区町村)
:
島根県益田市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
中須東原遺跡(空中写真)
解説文:
詳細解説
益田川(ますだがわ)河口左岸の砂丘後背の低湿地に立地する港湾を中心に発展した遺跡。発掘調査で,潟湖(せきこ)の岸に沿って,船着き場跡と考えられる大規模な礫敷(れきじ)き遺構が,全長約40m,最大幅約10mにわたって存在していることが確認されたのをはじめ,複数の掘立柱建物や鍛冶炉,鉄滓(てっさい)廃棄場,墓,道路等の遺構が検出された。
検出遺構の多くは,14世紀から16世紀のものであり,近接する中須西原遺跡の発掘調査成果や,検出された道路遺構の位置と,明治初期の絵図との比較から,方形の街区が形成されていた可能性が高い。出土遺物には貿易陶磁器が目立ち,中でも中国陶磁に次いで,15世紀代の朝鮮半島産の陶磁器やタイ産の陶器も認められることが注目される。内容が判明した数少ない中世の港湾遺跡であり,港を中心に展開した町の街区が良好な状態で残る等,遺跡の構造が判明する希有な遺跡。
また,遺跡の最盛期は,益田に本拠を置いた豪族益田氏の強い関与が想定される。益田氏が水運と深くかかわっていたことが,『益田家文書』から窺われるが,この文書と発掘調査成果を併せ検討することにより,中世の港湾遺跡の成立と展開,さらには港湾を利用した交易の内容まで知ることができる重要な遺跡である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
添付ファイル
なし
写真一覧
中須東原遺跡(空中写真)
中須東原遺跡(礫敷き遺構)
中須東原遺跡(出土遺物)
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中須東原遺跡(空中写真)
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中須東原遺跡(礫敷き遺構)
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中須東原遺跡(出土遺物)
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解説文
益田川(ますだがわ)河口左岸の砂丘後背の低湿地に立地する港湾を中心に発展した遺跡。発掘調査で,潟湖(せきこ)の岸に沿って,船着き場跡と考えられる大規模な礫敷(れきじ)き遺構が,全長約40m,最大幅約10mにわたって存在していることが確認されたのをはじめ,複数の掘立柱建物や鍛冶炉,鉄滓(てっさい)廃棄場,墓,道路等の遺構が検出された。 検出遺構の多くは,14世紀から16世紀のものであり,近接する中須西原遺跡の発掘調査成果や,検出された道路遺構の位置と,明治初期の絵図との比較から,方形の街区が形成されていた可能性が高い。出土遺物には貿易陶磁器が目立ち,中でも中国陶磁に次いで,15世紀代の朝鮮半島産の陶磁器やタイ産の陶器も認められることが注目される。内容が判明した数少ない中世の港湾遺跡であり,港を中心に展開した町の街区が良好な状態で残る等,遺跡の構造が判明する希有な遺跡。 また,遺跡の最盛期は,益田に本拠を置いた豪族益田氏の強い関与が想定される。益田氏が水運と深くかかわっていたことが,『益田家文書』から窺われるが,この文書と発掘調査成果を併せ検討することにより,中世の港湾遺跡の成立と展開,さらには港湾を利用した交易の内容まで知ることができる重要な遺跡である。
詳細解説▶
詳細解説
中須東原遺跡は、島根県西部の益田川河口左岸の砂丘後背の低湿地に立地する港湾を中心に発展した集落遺跡である。この遺跡は、平成16年度に都市計画決定された益田川左岸北部地区土地区画整理事業の施行に先立って益田市教育委員会によって実施された発掘調査によって存在が確認された。以後、平成23年度まで14次にわたって行われた発掘調査により、中世の港湾遺跡が良好な状態で遺存していることが判明したため、益田市は土地区画整理事業計画を変更し、遺跡を現状保存することを決定した。 益田川河口域は、縄文海進に伴って、海岸部から砂洲が成長し、それに伴い広範囲に潟湖が形成され、中須東原遺跡が成立する中世においては、土砂の流入による潟湖の陸地化が進むものの、港湾が立地するのに適した地形が維持されていたと考えられる。遺跡は、海岸部に形成された砂丘の後背地と潟湖の北岸との間に立地し、東西250m、南北最大130mの範囲に及ぶ。発掘調査では、全国的にも類例が少ない船着き場跡と考えられる大規模な礫敷き遺構が、全長約40m、最大幅約10mにわたって存在していることが確認された。この遺構は、潟湖の汀線沿いの緩斜面に拳大から人頭大の礫を敷いたものである。この他には、複数の掘立柱建物や鍛冶炉、鉄(てっ)滓(さい)廃棄場、墓、道路等の遺構が検出された。 この遺跡は12世紀中頃に成立し、後半に規模を拡大するが、その後、一旦廃絶し、14世紀になって再び整備され、16世紀まで存続することが、出土遺物から判明している。船着き場をはじめとする検出遺構の多くは、14世紀から16世紀のものであり、近接する中須西原遺跡の発掘調査や、検出された道路遺構の位置と、明治初期の「中須村地引図(じびきず)」との比較から、この時期には長方形の街区が形成されていた可能性が高い。また、出土遺物には貿易陶磁器が目立ち、中でも中国陶磁に次いで、15世紀代の朝鮮半島産の陶磁器やタイ陶器も認められることが注目される。 中須東原遺跡の性格を知るためには、益田に本拠を置いた豪族益田氏の動向に注目する必要がある。益田氏は4代兼高の時代の建久年間(1190~1198)に益田荘に土着してから、関ヶ原の合戦後に20代元祥(もとよし)が長門国須佐に移るまでの約400年間、この地を本拠としていた。 中須東原遺跡の成立時期は、益田氏が益田荘の荘官に任じられる以前で、益田川中流域を本拠としていた時期に相当することから、益田氏以外の勢力によって、整備・経営されたと考えられるが、この遺跡が再整備される14世紀は、益田氏が勢力を強め中須地域を益田本郷域に取り込み、三宅御土居を築造する時期に相当することから、益田氏の強い関与が想定される。 中世の文書だけでも850点にも及ぶ『益田家文書』には、益田氏と中須や海上交易との関係を示す記事が複数、認められている。永和2年(1376)の「益田(ますだ)本郷(ほんごう)御年貢(おねんぐ)并(ならびに)田数(でんすう)目録(もくろく)帳」には大中洲に「鍛冶名(かじみょう)」があり、「水衆(すいしゅ)用途(ようと)」が徴収されていたとあり、中須東原遺跡で検出された鍛冶炉、鉄滓廃棄場や、船着き場との関係が想定される。また、永禄11年(1568)に、益田氏が毛利氏に朝鮮産の虎の皮を贈っていることは、多量に出土した朝鮮半島産の陶磁器との関係が想定される。この他にも、天正6年(1578)の宗像大社辺津宮本殿遷宮の際に、益田氏が多量の木材を寄進していることや、大内氏滅亡後に見(み)島(しま)を領有すること等、益田氏が水運と深くかかわっていたことがわかる。 このように、中須東原遺跡は港を中心に展開した町の街区跡が良好な状態で残る等、中世の港湾の構造が判明する希有な遺跡である。また、『益田家文書』と発掘調査成果を併せ検討することにより、中世の港湾の成立と展開、さらには港湾を利用した交易の内容まで知ることができる重要な遺跡である。 よって史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。
関連情報
指定等後に行った措置
2016.03.01(平成28.03.01)
関連情報
指定等後に行った措置
異動年月日
:
2016.03.01(平成28.03.01)
異動種別1
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追加指定
異動種別2
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異動種別3
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異動内容
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