国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
八代城跡群
古麓城跡
麦島城跡
八代城跡
ふりがな
:
やつしろしろあとぐん
ふるふもとじょうあと
むぎしまじょうあと
やつしろじょうあと
八代城跡群(古麓城跡航空写真)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
中世・近世
年代
:
西暦
:
面積
:
297775.42 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
30
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2014.03.18(平成26.03.18)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
2017.02.09(平成29.02.09)
指定基準
:
二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡,六.交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設その他経済・生産活動に関する遺跡,七.墳墓及び碑
所在都道府県
:
熊本県
所在地(市区町村)
:
熊本県八代市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
八代城跡群(古麓城跡航空写真)
解説文:
詳細解説
八代城跡群は,球磨川(くまがわ)河口部の八代市街地と東方の丘陵部に所在する,中世から近世にかけて熊本県南部の八代地域の支配拠点となった三つの城跡と関連遺跡である。八代は薩摩街道と球磨川水運の結節点であり,徳渕の港を有し,肥後及び九州の水陸交通の要衝であった。
古麓城(ふるふもとじょう)は,南北朝時代から戦国時代にかけて名和氏・相良氏により球磨川右岸の丘陵部に築城,整備された山城である。天正15年(1587)には九州征伐の豊臣秀吉が滞在した。麦島城(むぎしまじょう)は,古麓城に替わって小西行長が球磨川河口部の徳渕の港に隣接して築城した総石垣造りの城である。関ヶ原の戦い後は加藤清正の支城となったが,元和5年(1619)の地震で倒壊し,北側の松江に八代城(やつしろじょう)(松江城とも呼ばれる)が築かれた。その後,細川家が肥後国主となると藩主忠利(ただとし)の父・細川三斎(さんさい)(忠興(ただおき))が入城,正保3年(1646)以降は家老松井氏が城代となり,熊本城とともに肥後一国二城体制を支える城として機能した。また,加藤氏が麦島城を改修する際瓦を焼いた平山瓦窯跡,城代松井家の歴代墓所も残る。
このように,八代城跡群は,歴代の政治権力による港湾・水運の掌握の様相を窺えるともに,一地域で中・近世の城郭構造の変遷を知ることができ,関連遺跡も残っており,一体として歴史を把握できる事例として貴重である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
添付ファイル
なし
写真一覧
八代城跡群(古麓城跡航空写真)
八代城跡群(麦島城跡本丸)
八代城跡群(八代城跡航空写真)
八代城跡群(平山瓦窯跡)
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八代城跡群(古麓城跡航空写真)
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八代城跡群(麦島城跡本丸)
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八代城跡群(八代城跡航空写真)
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八代城跡群(平山瓦窯跡)
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解説文
八代城跡群は,球磨川(くまがわ)河口部の八代市街地と東方の丘陵部に所在する,中世から近世にかけて熊本県南部の八代地域の支配拠点となった三つの城跡と関連遺跡である。八代は薩摩街道と球磨川水運の結節点であり,徳渕の港を有し,肥後及び九州の水陸交通の要衝であった。 古麓城(ふるふもとじょう)は,南北朝時代から戦国時代にかけて名和氏・相良氏により球磨川右岸の丘陵部に築城,整備された山城である。天正15年(1587)には九州征伐の豊臣秀吉が滞在した。麦島城(むぎしまじょう)は,古麓城に替わって小西行長が球磨川河口部の徳渕の港に隣接して築城した総石垣造りの城である。関ヶ原の戦い後は加藤清正の支城となったが,元和5年(1619)の地震で倒壊し,北側の松江に八代城(やつしろじょう)(松江城とも呼ばれる)が築かれた。その後,細川家が肥後国主となると藩主忠利(ただとし)の父・細川三斎(さんさい)(忠興(ただおき))が入城,正保3年(1646)以降は家老松井氏が城代となり,熊本城とともに肥後一国二城体制を支える城として機能した。また,加藤氏が麦島城を改修する際瓦を焼いた平山瓦窯跡,城代松井家の歴代墓所も残る。 このように,八代城跡群は,歴代の政治権力による港湾・水運の掌握の様相を窺えるともに,一地域で中・近世の城郭構造の変遷を知ることができ,関連遺跡も残っており,一体として歴史を把握できる事例として貴重である。
詳細解説▶
詳細解説
八代城跡群は、球磨川(くまがわ)河口部の八代市街地と東方の丘陵部に所在する、中世から近世にかけて熊本県八代地域の支配拠点となった城跡と関連遺跡からなる遺跡である。 球磨川河口部に位置する八代は、薩摩街道(さつまかいどう)が通る交通の結節点であり、肥後五港の一つとして知られる徳渕(とくぶち)の津(つ)を有し、肥後及び九州の水陸交通の要衝であった。建武元年(1334)名和義高(なわよしたか)が八代荘の地頭職(じとうしき)を得て、球磨川右岸の丘陵部に古麓城(ふるふもとじょう)を築き、支配の拠点とした。15世紀後半以降、名和(なわ)・相良(さがら)両氏の抗争を経て相良氏が八代を領し、麓に城下町も形成されたが、島津氏の勢力北上に伴って、古麓城は島津の拠点となった。天正15年(1587)九州攻めに際して豊臣秀吉は、古麓城に滞在している。天正16年肥後南部の領主になった小西行長(こにしゆきなが)は、港をより直接的に掌握するため、徳渕(とくぶち)の入江と球磨川に挟まれた地に麦島城を築かせた。関ヶ原の戦いの後、加藤清正の領国となって麦島城はその支城となり、島津氏を牽制する境目の城として機能し、元和の一国一城令後も、熊本城とともに一国二城体制として維持された。しかし、元和5年(1619)地震で倒壊したため、北側に八代城(松江城)が築かれた。細川氏の肥後入封に伴い、藩主忠利(ただとし)の父細川三斎(さんさい)(忠興(ただおき))が入城、正保3年(1646)細川家家老松井興長(おきなが)が城代となって以後は、松井家が歴代その任に当たり、明治維新に至った。 古麓城跡は、八代平野に流れ出た球磨川の東に近接した飯盛山(いいもりやま)・丸山・古麓山の頂上と尾根筋に点在する、5つの山城群の総称である。東西約800m、南北約960mの範囲に曲輪や堀切、竪堀(たてぼり)等の遺構が展開する。北側から伝新城跡(でんしんじょうあと)、伝丸山城跡、伝鞍掛城跡(でんくらかけじょうあと)、伝鷹峯城跡(でんたかみねじょうあと)が尾根筋を介して接続し、各城郭の配置には求心性がない並列的な構造の山城である。また、伝丸山城跡及び伝鷹峯城跡と谷筋を挟んで南側に伝飯盛城跡(でんいいもりじょうあと)が所在する。今回保存を図るのは、相良氏時代と考えられる伝新城跡及び伝丸山城跡である。伝新城跡では北側に二重の堀切を設け、伝鷹峯城跡につながる尾根の両端は中央部を細く残した土橋(どばし)とし、両側に竪堀を併設する状況が確認されている。 麦島城跡は、球磨川とその支流前川(まえがわ)に挟まれた中州に所在する。城跡を横断する都市計画道路建設を契機に、八代市教育委員会が平成8年度以降、発掘調査等を実施した結果、城跡は東西約130m、南北約120mの本丸を中心に、東に二ノ丸、西に三ノ丸を配し、それぞれ水堀で囲まれた総石垣造りの城であることが判明した。本丸跡では、加藤時代の改修状況を確認し、二ノ丸東側外堀跡では、地震で倒壊した平櫓(ひらやぐら)の建築部材が出土した。今回保存を図るのは、天守台及び本丸の一部である。天守台石垣と推定される石垣が現存し、本丸中央部では御殿跡と想定される礎石建物を検出した。また、西端部では小天守と思われる櫓台状の石垣遺構を検出し、小天守に葺かれたと考えられる朝鮮半島産の「隆慶(りゅうけい)二年」銘及び「萬暦(ばんれき)十二年」銘の滴水瓦(てきすいがわら)、及び金箔鯱瓦(きんぱくしゃちがわら)が出土した。九州最古の織豊系城郭として、また小西行長築城の城郭として注目される。 八代城跡は、球磨川河口の北側に立地し、本丸、二ノ丸、三ノ丸、出丸からなる総石垣造りの城である。加藤時代の麦島城の縄張りを基としたと推定され、細川期においてもその縄張を基本としたものとされる。現在、本丸と北ノ丸が良好に遺存している。本丸の規模は約180m角で、四周に水堀を備えている。東側に大手門を設け、本丸西北角に大天守、その南に小天守台が現存する。北ノ丸にも石垣が一部残っている。 これら三城跡に関連するものとして、平山瓦窯跡及び松井家墓所がある。平山瓦窯跡は、加藤氏が麦島城を改修する際に、その所用瓦を焼いた窯跡で、八代平野の南東山麓部に位置する。中央の焼成室とその両側に作られた燃焼室からなる平地式窯である。また、松井家墓所は、古麓城跡の西麓に所在する春光寺(しゅんこうじ)境内に営まれた、城代松井家歴代の墓所である。古廟と新廟の2棟の霊屋(たまや)に興長以下歴代の当主及び正室の五輪塔が一列に配され、周囲には一族等の墓域が展開する。 このように、八代城跡群は、水陸交通の要衝に位置する八代を支配するため継続して築かれた城跡群であり、中世末・近世初頭に、港湾・水運をより強く掌握するため支配拠点を丘陵部から平地部に移動させていく中・近世城館の歴史的展開をよく示す。歴代の政治権力による港湾・水運の掌握の様相を窺えるともに、一地域で中・近世の城郭構造の変遷を知ることができ、我が国の中・近世の政治・軍事を知る上で貴重であることから、史跡に指定してその保護を図るものである。
関連情報
指定等後に行った措置
2017.02.09(平成29.02.09)
関連情報
指定等後に行った措置
異動年月日
:
2017.02.09(平成29.02.09)
異動種別1
:
追加指定
異動種別2
:
異動種別3
:
異動内容
: