国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
慈恩寺旧境内
ふりがな
:
じおんじきゅうけいだい
慈恩寺本堂
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
平安末期〜近世
年代
:
西暦
:
面積
:
446424.25 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
137
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2014.10.06(平成26.10.06)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
三.社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡
所在都道府県
:
山形県
所在地(市区町村)
:
山形県寒河江市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
慈恩寺本堂
解説文:
詳細解説
慈恩寺旧境内は山形盆地の西縁中央に位置し,南側を寒河江(さがえ)川(がわ)が東流する。葉山(標高1,462m)の前山群の最も手前の丘陵地を占め,堂塔と前面の院坊屋(いんぼうや)敷地(しきち)の背後に中世の城館群が取り巻き,さらに北へ4km程の地点に山業(さんごう)と呼ばれる修験(しゅげん)の行場(ぎょうば)を有する。本尊(ほんぞん)木造(もくぞう)弥勒菩薩(みろくぼさつ)坐像(ざぞう)の胎内(たいない)経(きょう)奥書(おくがき)から,永仁6年(1298)には少なくとも鳥羽天皇の御願(ごがん)寺(じ)とする伝承が成立していたことが知られる。平安時代後期には,寒河江荘の支配を通じて藤原摂関家の保護を受け,以後,地頭大江氏,最上氏,その改易(元和8年〈1622〉)後は江戸幕府の保護を得た。本堂(弥勒堂,元和4年〈1618〉建築,重要文化財)のほか,多くの仏像や古文書等の文化財を伝え,一切(いっさい)経会(きょうえ)には中世以来,林家(はやしけ)による舞楽(重要無形民俗文化財)が奉納される。中世以来,顕(けん)密(みつ)を兼学し,臨済禅や律宗,時宗等の影響も受けた。江戸時代には,真(しん)言方(ごんがた)学頭(がくとう)の宝蔵院(ほうぞういん)と華蔵院(けぞういん),それに天台方(てんだいがた)別当(べっとう)最上院(さいじょういん)の3カ院と48の坊からなる一山(いっさん)寺院(じいん)を形成した。江戸時代に復興した堂社と院坊屋敷地のたたずまいは,その背後を取り巻く城館群や旧境内地の北端近くに存在する行場とともに,旧境内の様相を良好にとどめている。我が国の仏教信仰の在り方を知るうえで極めて重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
慈恩寺本堂
慈恩寺三重塔
慈恩寺山門
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慈恩寺本堂
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慈恩寺三重塔
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慈恩寺山門
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解説文
慈恩寺旧境内は山形盆地の西縁中央に位置し,南側を寒河江(さがえ)川(がわ)が東流する。葉山(標高1,462m)の前山群の最も手前の丘陵地を占め,堂塔と前面の院坊屋(いんぼうや)敷地(しきち)の背後に中世の城館群が取り巻き,さらに北へ4km程の地点に山業(さんごう)と呼ばれる修験(しゅげん)の行場(ぎょうば)を有する。本尊(ほんぞん)木造(もくぞう)弥勒菩薩(みろくぼさつ)坐像(ざぞう)の胎内(たいない)経(きょう)奥書(おくがき)から,永仁6年(1298)には少なくとも鳥羽天皇の御願(ごがん)寺(じ)とする伝承が成立していたことが知られる。平安時代後期には,寒河江荘の支配を通じて藤原摂関家の保護を受け,以後,地頭大江氏,最上氏,その改易(元和8年〈1622〉)後は江戸幕府の保護を得た。本堂(弥勒堂,元和4年〈1618〉建築,重要文化財)のほか,多くの仏像や古文書等の文化財を伝え,一切(いっさい)経会(きょうえ)には中世以来,林家(はやしけ)による舞楽(重要無形民俗文化財)が奉納される。中世以来,顕(けん)密(みつ)を兼学し,臨済禅や律宗,時宗等の影響も受けた。江戸時代には,真(しん)言方(ごんがた)学頭(がくとう)の宝蔵院(ほうぞういん)と華蔵院(けぞういん),それに天台方(てんだいがた)別当(べっとう)最上院(さいじょういん)の3カ院と48の坊からなる一山(いっさん)寺院(じいん)を形成した。江戸時代に復興した堂社と院坊屋敷地のたたずまいは,その背後を取り巻く城館群や旧境内地の北端近くに存在する行場とともに,旧境内の様相を良好にとどめている。我が国の仏教信仰の在り方を知るうえで極めて重要である。
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詳細解説
慈恩寺旧境内は山形盆地の西縁中央に位置し、南側を寒河江川が東流する。葉山(標高1,462m)の前山群の最も手前の丘陵地を占め、堂塔と前面の院坊屋敷地との背後を中世の城館群が取り巻き、さらに北へ4km程の地点に山業(さんごう)と呼ばれる修験(しゅげん)の行場(ぎょうば)を有する。延享3年(1746)の文書に「境内山林」として「東西拾町余、南北五拾町余」との記載がみえ、山林を含む広大な範囲に及んでいた。寒河江川の谷は出羽三山を経て庄内平野につらなる交通路で、最上川舟運が山形盆地に通じるのは近世初期であることから、当地域は出羽の内陸部と海岸部とを結ぶ交通の要衝であったと考えられる。 縁起等は慈恩寺の創建を天平期とするが、具体的な様相が把握できるのは平安時代後期になってからである。天仁元年(1108)、あるいは仁平(にんぴょう)年間(1151―1154)に鳥羽天皇(法皇)の勅(院宣)によって造営がなされたとされ(『出羽国村山郡瑞宝山慈恩寺伽藍記』)、法相宗の寺院として建立されたとの伝承も有する。本尊木造弥勒菩薩坐像の胎内経奥書から、永仁6年(1298)には少なくとも鳥羽天皇の御願(ごがん)寺(じ)とする伝承が成立していたことが知られる。慈恩寺のある寒河江荘は天仁年間、藤原忠実の荘園であり(『殿暦』)、名取新宮寺(宮城県名取市)の一切経のなかに慈恩寺の一切経が存在することや、重要文化財に指定されている平安時代後期の仏像群の存在等、藤原摂関家との関係を窺わせる。文治5年(1189)の奥州合戦ののち、大江広元が寒河江荘地頭となり、以後、大江氏が寒河江荘を相伝し、慈恩寺の保護を行った。永正元年(1504)の兵乱によって堂塔は焼失するが、その復興の基礎は大江氏を滅ぼし、新たに入部した最上氏によって築かれ、その改易(元和8年〈1622〉)後は江戸幕府が朱印地を与え、現在の伽藍の整備・経営がなされた。本堂(弥勒堂、元和4年〈1618〉建築、重要文化財)のほか、県指定3棟あるいは市指定5棟の建造物等によって伽藍が構成され、永仁6年造立の本尊等、重要文化財5件30躯、県指定16件24躯の仏像が遺されている。 法華経所依(しょえ)の平安後期の仏像群の存在から、法華経を中心とする天台教学の寺院であったことが窺え、平安末期から鎌倉初期にかけて真言密教が流入したと考えられる。永仁6年に造立された本尊弥勒菩薩を中心とする五尊像が顕教系と密教系の仏像によって構成されるなど、鎌倉時代以降、顕密を兼学した。また、臨済禅や西大寺系律宗、時宗なども入り、総合的な学問が実修されていた。現在においても、慈恩寺の一切経会に四天王寺(大阪市)の楽人(がくじん)を祖とする林家(はやしけ)による舞楽(重要無形民俗文化財)が奉納されるが、史料上、永正5年(1508)にまで確実にさかのぼるものである。また、中世の史料から慈恩寺の伽藍は西院・中院の別があったことが知られている。堂塔と前面の院坊屋敷地を取り巻くように中世の城館である肥前楯やゴロビツ楯等がある。 江戸時代の慈恩寺は弥勒堂を中心として3カ院48坊からなる一山寺院を構成し、鎮護国家・五穀豊穣・招福除災を祈願する祈祷寺の性格を持つ寺院であった。3カ院は真言方学頭の宝蔵院と華蔵院、それに天台方別当最上院(元和9年以前は池本坊と称した)で、いずれも中世からその地位を保持している。当初葉山で峯中(ぶちゅう)を行っていたが、天正年間に葉山と峯を分け、独自の峯中を行うようになる。「山醍醐」と呼ばれる山内に「一の宿」(新山堂が存在)、「二の宿」、「三の宿」があり、山業と呼ばれた「三の宿」は四十(しじゅう)八(はち)森などの旧状を良好に留めている。寺領は天台真言両宗の寺として、寛永5年(1628)に2,812石3斗余が安堵されている。明治4年(1871)の上知令により、朱印地が没収され、帰農するものも多く、昭和21年、天台・真言両宗慈恩寺派として「瑞宝山本山慈恩寺」を名乗って現在に至る。3カ院17坊の構成である。 このように慈恩寺旧境内は、平安時代以来、藤原摂関家、地頭大江氏、最上氏、さらに江戸幕府によって保護がはかられ、鎮護国家を祈願する祈祷寺として多くの仏像や古文書等を伝えてきた。江戸時代に復興した堂社と院坊屋敷地のたたずまいは、その背後を取り巻く城館群や旧境内地の北端近くに存在する行場とともに、旧境内の様相を良好にとどめている。我が国の仏教信仰のあり方を知るうえで重要であることから、史跡に指定し、保護の万全を図るものである。