国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
下里・青山板碑製作遺跡
ふりがな
:
しもざと・あおやまいたびせいさくいせき
下里・青山板碑製作遺跡(割谷地区ズリ平場)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
鎌倉〜戦国
年代
:
西暦
:
面積
:
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
137
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2014.10.06(平成26.10.06)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
六.交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設その他経済・生産活動に関する遺跡
所在都道府県
:
埼玉県
所在地(市区町村)
:
埼玉県比企郡小川町
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
下里・青山板碑製作遺跡(割谷地区ズリ平場)
解説文:
詳細解説
外秩父山地の北東裾小川盆地に所在する鎌倉時代から戦国時代の板碑(いたび)製作(せいさく)遺跡(いせき)。13世紀頃から関東では仏教信仰の高まりを受け,寺院建立に加え緑(りょく)泥(でい)石(せき)片岩製(へんがんせい)の石塔(せきとう)である「板碑(いたび)」の造立が盛んになる。小川町は板碑石材の有力な産出地と考えられており,平成13年に同町下里で加工石材が採集されたことを契機に,小川町教育委員会が調査を開始したところ,採掘の可能性がある地点が,割(わり)谷(や)地区,西坂(にしさか)下前(したまえ)A地区,内寒沢(うちかんざわ)地区など19箇所確認された。
割(わり)谷(や)地区では,緑泥石片岩の露頭(ろとう)や,大小のズリによって形成された幅50m,奥行き45m程の平場が認められる。発掘調査では,矢(や)穴(あな)痕(あと)が残る岩塊や板碑形のケガキ線や溝状の掘り込みの残る石材,平(ひら)鑿(のみ)による削り痕が残る石材等が確認され,採掘から板碑形へ加工するまでの工程が明らかになった。また,出土した未成品の大きさや加工技術を町内外にある板碑と比較検討した結果,割谷地区における採掘の最盛期が関東で最も多く板碑が造られたとされる14世紀中頃から15世紀後半であることが判明した。
遺跡の規模や採掘の可能性がある地区が多数確認されることから,小川町内で生産された板碑の量は膨大で,武蔵国における板碑の中心的な生産地であったと考えられる。板碑の生産と流通だけでなく,板碑に象徴される中世の精神文化を知る上でも重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
下里・青山板碑製作遺跡(割谷地区ズリ平場)
下里・青山板碑製作遺跡(発掘調査風景)
下里・青山板碑製作遺跡(製作途中の板碑)
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下里・青山板碑製作遺跡(割谷地区ズリ平場)
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下里・青山板碑製作遺跡(発掘調査風景)
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下里・青山板碑製作遺跡(製作途中の板碑)
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解説文
外秩父山地の北東裾小川盆地に所在する鎌倉時代から戦国時代の板碑(いたび)製作(せいさく)遺跡(いせき)。13世紀頃から関東では仏教信仰の高まりを受け,寺院建立に加え緑(りょく)泥(でい)石(せき)片岩製(へんがんせい)の石塔(せきとう)である「板碑(いたび)」の造立が盛んになる。小川町は板碑石材の有力な産出地と考えられており,平成13年に同町下里で加工石材が採集されたことを契機に,小川町教育委員会が調査を開始したところ,採掘の可能性がある地点が,割(わり)谷(や)地区,西坂(にしさか)下前(したまえ)A地区,内寒沢(うちかんざわ)地区など19箇所確認された。 割(わり)谷(や)地区では,緑泥石片岩の露頭(ろとう)や,大小のズリによって形成された幅50m,奥行き45m程の平場が認められる。発掘調査では,矢(や)穴(あな)痕(あと)が残る岩塊や板碑形のケガキ線や溝状の掘り込みの残る石材,平(ひら)鑿(のみ)による削り痕が残る石材等が確認され,採掘から板碑形へ加工するまでの工程が明らかになった。また,出土した未成品の大きさや加工技術を町内外にある板碑と比較検討した結果,割谷地区における採掘の最盛期が関東で最も多く板碑が造られたとされる14世紀中頃から15世紀後半であることが判明した。 遺跡の規模や採掘の可能性がある地区が多数確認されることから,小川町内で生産された板碑の量は膨大で,武蔵国における板碑の中心的な生産地であったと考えられる。板碑の生産と流通だけでなく,板碑に象徴される中世の精神文化を知る上でも重要である。
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詳細解説
下里・青山板碑製作遺跡は、外秩父山地の北東裾小川盆地に所在する13世紀から16世紀にかけて武蔵国を中心に広く流通した武蔵型板碑の石材である緑泥石片岩を採掘、加工した複数の地点からなる遺跡である。板碑は13世紀頃からの仏教信仰の高まりを受けて、主に武蔵国や相模国等の御家人を中心とする東国武士によって造立されたと考えられる石塔である。 現在、確認されている最古の板碑は埼玉県熊谷市にある嘉禄3年(1227)のもので、13世紀末以降、板碑は青森県から鹿児島県にかけての各地で造られるようになるが、最も数が多いのは埼玉県であり、確認されているだけでも2万7千基を超える。また、関東の板碑は石材の違いから、秩父地方産の緑泥石片岩(青石)製の武蔵型板碑と筑波山から産出される黒雲母片岩製の下総型板碑に大別されが、武蔵国のもののほとんどは前者である。 武蔵型板碑の石材である緑泥石片岩の産出地は武蔵国周辺では限られており、中世に採掘が行われていた場所としては埼玉県長瀞(ながとろ)町が知られているに過ぎなかった。そうした中で下里・青山板碑製作遺跡が所在する小川町は、近年まで緑泥石片岩の採掘が行われていたことから、武蔵型板碑の石材採掘地の候補地として注目されていた。 小川町内で板碑石材の採掘遺跡の調査が開始されたのは、平成13年に下里で中世のものと考えられる加工石材が採集されたことによるもので、小川町教育委員会は平成19年度から本格的な調査に着手した。 調査はまず、加工石材が採集された割(わり)谷(や)遺跡の分布・測量調査から進められ、大規模な緑泥石片岩の露頭や大小のズリにより形成された幅50m、奥行き45m程の平場の存在が明らかになった。平場の上には土の堆積がまったく認められず、上面には大小の瘤状のズリ山が認められ、その上部には細かい屑石が堆積する傾向がある。これは、不要石材の捨て場の単位か、製作場の作業単位である可能性が指摘されている。また、ズリに混じって板碑の未成品が出土している。 発掘調査では、矢穴痕が残る岩塊や舟形のケガキ線や溝状の掘り込みの残る石材、表面に平鑿による削り痕が残る石材等が確認されるなど、この遺跡では採掘だけではなく石材を板碑型に加工する工程までが行われていたことが判明すると同時に、その工程が明らかになった。 板碑の製作工程は、採掘、石材分割、板碑形への成形、表面及び側面の調整、彫刻、装飾の工程からなるが、本遺跡では彫刻が見られるものは認められていないことから、調整までの工程を行っていたと考えられる。また、成形技法は平鑿による押し削り技法が用いられており、この技法は小川町内にある近世以降の緑泥石片岩製の墓石では、ほとんど認められない。さらに、出土した未成品の大きさは横幅12~22.5cmの小型のものであり、小川町を流れる槻(つき)川(かわ)から入間川流域で確認される紀年銘を持つ武蔵型板碑約2100基の分析の結果、このような大きさの板碑は14世紀中頃から15世紀後半、関東において板碑がもっとも多く造立された時期にあたることが判明した。 これら調査と併行して、小川町内における採掘遺跡の分布調査も実施され、19の地点で加工石材片が採集された。そのうち、西坂下前A遺跡、内寒沢遺跡では割谷遺跡と同様のズリ平場が確認され複数の板碑未成品が採集された。遺跡の規模や構造、採集遺物の時期も割谷遺跡とほぼ同様であることから、小川町下里、青山に分布する採掘遺跡は、総数5万基にも及ぶとされる武蔵型板碑の中心的な生産地であったと考えられる。 このように、下里・青山板碑製作遺跡は、中世の武蔵国における生産と流通のあり方を知る上で重要である。また、板碑の生産と流通には宗教勢力の介在が想定される等、中世の仏教信仰の広がりとも深く関わっていると考えられることから、その生産体制や流通のあり方の解明は中世の仏教信仰を考える上でも重要である。よって、これらの板碑製作遺跡を一体的に捉え史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。