国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
西高木家陣屋跡
ふりがな
:
にしたかぎけじんやあと
西高木家陣屋跡(石垣)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
江戸時代
年代
:
西暦
:
面積
:
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
137
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2014.10.06(平成26.10.06)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
三.社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡,七.墳墓及び碑
所在都道府県
:
岐阜県
所在地(市区町村)
:
岐阜県大垣市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
西高木家陣屋跡(石垣)
解説文:
詳細解説
西高木家陣屋跡は旗本西高木家の陣屋跡で,揖斐川(いびがわ)の支流(しりゅう)牧田(まきた)川が形成した河岸段丘上に位置する。高木家は江戸時代を通じて同地を支配し,宗家である西家と,北家・東家の三家からなり,「交代(こうたい)寄合(よりあい)美濃(みの)衆(しゅう)」として大名と同等の格式を許されていた。同家の担った重要な役割に川通(かわどおり)御用の役儀があり,木曽三川の治水行政にあたった。西高木家の陣屋は伊勢街道に東面し,その街道側の段丘崖を中心に石垣が構築され,埋門(うずみもん)も整備された。北側に上屋敷,南に下屋敷が構えられ,上屋敷西側に墓所を営んだ。屋敷絵図と古文書の調査から,天保3年(1832)に陣屋の大部分の建物が焼失し,その後,建物の主軸を大きく変えて,陣屋が再建されたことが判明し,発掘調査によっても地下遺構が良好に遺存していることが確認されている。近代以降,西高木家の敷地は上屋敷を中心に徐々に縮小し,明治年間建造の主屋と嘉永5年(1852)建造の下屋敷御門を移築した長屋門,土蔵(解体し,部材を保管)が残っている。さらに高木三家に伝来した古文書群は10万点にも及ぶ。西高木家陣屋跡は交代寄合美濃衆としての役儀を担った旗本西高木家の陣屋跡として石垣等の遺構が良好に残り,かつ膨大な高木家文書の伝来によって近世における旗本領主の実態を明らかとする遺跡として極めて重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
西高木家陣屋跡(石垣)
西高木家陣屋跡(長屋門)
西高木家陣屋跡(3代当主高木貞利墓)
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西高木家陣屋跡(石垣)
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西高木家陣屋跡(長屋門)
写真一覧
西高木家陣屋跡(3代当主高木貞利墓)
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解説文
西高木家陣屋跡は旗本西高木家の陣屋跡で,揖斐川(いびがわ)の支流(しりゅう)牧田(まきた)川が形成した河岸段丘上に位置する。高木家は江戸時代を通じて同地を支配し,宗家である西家と,北家・東家の三家からなり,「交代(こうたい)寄合(よりあい)美濃(みの)衆(しゅう)」として大名と同等の格式を許されていた。同家の担った重要な役割に川通(かわどおり)御用の役儀があり,木曽三川の治水行政にあたった。西高木家の陣屋は伊勢街道に東面し,その街道側の段丘崖を中心に石垣が構築され,埋門(うずみもん)も整備された。北側に上屋敷,南に下屋敷が構えられ,上屋敷西側に墓所を営んだ。屋敷絵図と古文書の調査から,天保3年(1832)に陣屋の大部分の建物が焼失し,その後,建物の主軸を大きく変えて,陣屋が再建されたことが判明し,発掘調査によっても地下遺構が良好に遺存していることが確認されている。近代以降,西高木家の敷地は上屋敷を中心に徐々に縮小し,明治年間建造の主屋と嘉永5年(1852)建造の下屋敷御門を移築した長屋門,土蔵(解体し,部材を保管)が残っている。さらに高木三家に伝来した古文書群は10万点にも及ぶ。西高木家陣屋跡は交代寄合美濃衆としての役儀を担った旗本西高木家の陣屋跡として石垣等の遺構が良好に残り,かつ膨大な高木家文書の伝来によって近世における旗本領主の実態を明らかとする遺跡として極めて重要である。
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詳細解説
西高木家陣屋跡は旗本西高木家の陣屋跡で、揖斐川の支流牧田川が形成した河岸段丘上に位置する。 高木家は美濃南部の駒野(こまの)・今尾(いまお)周辺(現・海津市)に勢力を張った土豪で、関ヶ原合戦後、その功により、石津郡時(とき)・多良(たら)郷に4,300石を与えられ、江戸時代を通じて同地を支配した旗本である。宗家である西家と、北家・東家の三家からなり、西家2,300石、北家1,000石、東家1,000石を領したが、「交代寄合美濃衆」として大名と同等の格式を許されていた。すなわち一般の旗本とは異なり、知行地に常時居住する一方で江戸屋敷を有し、参勤交代を行った。領地は美濃・伊勢・近江の三国が接する軍事・交通の要衝で、幕府の非常事態、特に上方のそれに備えた。また、同家の担った重要な役割に川通(かわどおり)御用の役儀があり、ほぼ江戸時代を通じて木曽三川の治水行政にあたる水(みず)行(ゆき)奉行を務めた。西家は維新後もこの地にとどまり、郡長・衆議院議員・多良村長などの公職を務め、陣屋跡は近年まで同家が所有・居住していた。 段丘の一段高位に西高木家の陣屋が、低位側に北家・東家の陣屋が隣接して営まれた。西高木家の陣屋は伊勢街道に東面しており、その街道側の段丘崖を中心に石垣が構築され、埋門(うずみもん)も整備された。北側に上(かみ)屋敷、南に下(しも)屋敷が構えられ、上屋敷西側に墓所を営んだ。屋敷絵図と古文書の調査から、天保3年(1832)に陣屋の大部分の建物が焼失し、その後、建物の主軸を大きく変えて、陣屋が再建されたことが判明し、発掘調査によっても地下遺構が良好に遺存していることが確認された。近代以降、西高木家の敷地は上屋敷を中心に徐々に縮小し、明治年間建造の主屋と嘉永5年(1852)建造の下屋敷御門を移築した長屋門、土蔵(解体し、部材を保管)が残り、敷地南には現在、市立上石津郷土資料館が建っている。 墓所は42基の墓石が確認できるが、現在の姿は、単純な造墓の累積ではなく、18世紀後半から石製墓標が採用され、さかのぼって先祖の墓が整備されていったことが判明している。 高木三家に伝来した古文書群は10万点にも及び、その多くは、戦後名古屋大学が所蔵するところとなり、調査・分析が行われている。近世における旗本、特に交代寄合としての特殊な役割を跡づけることができるもので、貴重な文書である。 このように西高木家陣屋跡は交代寄合美濃衆としての役儀を担った旗本西高木家の陣屋跡として石垣や主屋、長屋門等の建造物や地下遺構が良好に残り、かつ膨大な高木家文書の伝来によって近世における旗本領主の実態を明らかとするうえできわめて重要であることから、史跡に指定し、保護の万全を図るものである。