国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
大高野官衙遺跡
ふりがな
:
おおたかのかんがいせき
大高野官衙遺跡(倉庫跡空撮)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
奈良〜平安
年代
:
西暦
:
面積
:
27671.15 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
137
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2014.10.06(平成26.10.06)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在都道府県
:
鳥取県
所在地(市区町村)
:
鳥取県東伯郡琴浦町
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
大高野官衙遺跡(倉庫跡空撮)
解説文:
詳細解説
鳥取県の中央部,古代においては伯耆(ほうき)国(のくに)の中央部に位置する八橋(やはし)郡(ぐん)に所在する。遺跡の西方約350mには白鳳期(はくほうき)の寺院跡で,特別史跡斎(さい)尾(のお)廃寺(はいじ)跡(あと)がある。
調査は,昭和56年まで遡り,礎石(そせき)が列をなしていることが明らかとなり,炭化米が確認されたことから,八橋郡の正倉(しょうそう)あるいは郷倉(ごうそう)と推測された。その後の調査の結果,南北105m,東西130m以上の範囲を,北・東・南を溝によって区画され,西側は自然地形によって区画された長方形に近い敷地内に企画性をもって整然と並ぶ総柱(そうばしら)礎石(そせき)建物(たてもの)11棟,総柱(そうばしら)掘(ほっ)立柱(たてばしら)建物(たてもの)5棟,側柱(がわばしら)掘(ほっ)立柱(たてばしら)建物(たてもの)7棟と掘立柱塀3条を検出した。礎石の中には被熱(ひねつ)痕(こん)を残すものも認められ,須恵器(すえき)や土師器(はじき)などから,Ⅰ期は7世紀末~8世紀中葉,Ⅱ期が8世紀後葉~9世紀前半,Ⅲ期が9世紀後半の変遷をたどったことが知られる。
この遺跡は倉庫令に記されている防湿に適した台地上に立地し,総柱の高床倉庫が建て替えによって踏襲されながらも整然と並んでおり,稲穀収蔵施設である正倉の姿を具体的に示すものである。また,礎石に火災と考えられる被熱痕があることと焼米の存在は,正倉の火災との関係を示唆するものである。このように,確認された遺構は八橋郡郡衙(ぐんが)(郡家(ぐうけ))の正倉の可能性が高く,古代国家の地方支配の実態を具体的に知る上でも重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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大高野官衙遺跡(倉庫跡空撮)
大高野官衙遺跡(倉庫跡近景)
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大高野官衙遺跡(倉庫跡空撮)
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大高野官衙遺跡(倉庫跡近景)
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解説文
鳥取県の中央部,古代においては伯耆(ほうき)国(のくに)の中央部に位置する八橋(やはし)郡(ぐん)に所在する。遺跡の西方約350mには白鳳期(はくほうき)の寺院跡で,特別史跡斎(さい)尾(のお)廃寺(はいじ)跡(あと)がある。 調査は,昭和56年まで遡り,礎石(そせき)が列をなしていることが明らかとなり,炭化米が確認されたことから,八橋郡の正倉(しょうそう)あるいは郷倉(ごうそう)と推測された。その後の調査の結果,南北105m,東西130m以上の範囲を,北・東・南を溝によって区画され,西側は自然地形によって区画された長方形に近い敷地内に企画性をもって整然と並ぶ総柱(そうばしら)礎石(そせき)建物(たてもの)11棟,総柱(そうばしら)掘(ほっ)立柱(たてばしら)建物(たてもの)5棟,側柱(がわばしら)掘(ほっ)立柱(たてばしら)建物(たてもの)7棟と掘立柱塀3条を検出した。礎石の中には被熱(ひねつ)痕(こん)を残すものも認められ,須恵器(すえき)や土師器(はじき)などから,Ⅰ期は7世紀末~8世紀中葉,Ⅱ期が8世紀後葉~9世紀前半,Ⅲ期が9世紀後半の変遷をたどったことが知られる。 この遺跡は倉庫令に記されている防湿に適した台地上に立地し,総柱の高床倉庫が建て替えによって踏襲されながらも整然と並んでおり,稲穀収蔵施設である正倉の姿を具体的に示すものである。また,礎石に火災と考えられる被熱痕があることと焼米の存在は,正倉の火災との関係を示唆するものである。このように,確認された遺構は八橋郡郡衙(ぐんが)(郡家(ぐうけ))の正倉の可能性が高く,古代国家の地方支配の実態を具体的に知る上でも重要である。
詳細解説▶
詳細解説
大高野官衙遺跡は、鳥取県の中央部、標高40m前後の丘陵緩斜面地に立地する遺跡で、古代においては伯耆国の中央部に位置する八橋郡に所在する。遺跡の西方約350mのところに白鳳期の寺院跡である特別史跡斎尾廃寺跡がある。 この遺跡の調査は、昭和56年まで遡る。土地所有者から果樹園にする申請があったため、東伯町(現琴浦町)教育委員会が現地を踏査したところ、礎石が列をなしていることが明らかとなり、炭化米が確認されたことから、八橋郡の正倉あるいは郷倉と推測された。その後も、当該地付近で土地改良事業や農地転用計画などの計画がもちあがり、調査が行われた結果、昭和56年に調査した地点の西側には南北棟の総柱礎石建物、東西棟の総柱礎石建物、総柱掘立柱建物などを検出し、遺跡の西方に建物が南北方向に整然と並んでいることが明らかとなった。建物の規模は礎石建物においては桁行4間、梁行3間、床面積81㎡のものが最大で、続いて50㎡程度のもの、そして35㎡程度のものとなる。また、礎石建物の下層には掘立柱建物が存在することが確認され、掘立柱建物から礎石建物への変遷も確認できる。丘陵の北・東・南辺で溝が確認され、溝は幅3~4.5m、深さ0.7~1.3mである。 こうした調査の結果、南北105m、東西130m以上の範囲を、北・東・南を溝によって区画され、西側は自然地形によって区画された長方形に近い敷地内に規画性をもって整然と並ぶ総柱礎石建物11棟、総柱掘立柱建物5棟、側柱掘立柱建物7棟と掘立柱塀3条を検出した。礎石の中には被熱痕を残すものも認められる。 これらは、次のような3段階の変遷をたどったものと考えられる。すなわち、Ⅰ期が3方を溝で区画され掘立柱建物主体で構成された段階、Ⅱ期はⅠ期の区画を踏襲し総柱礎石建物主体で構成された段階、Ⅲ期は東に区画溝が拡張され掘立柱建物主体で構成された段階と考えられる。掘立柱塀については遺跡の中央部からⅠ期あるいはそれに先行する遺物が出土していることからⅠ期に先行する初期官衙に伴う区画である可能性があるものの、検出された建物が東に移り変わって行く傾向があることを踏まえると、Ⅲ期より新しい可能性も残され、時期の確定は現状ではできない。出土遺物は、須恵器や土師器があり、Ⅰ期は7世紀末から8世紀中葉、Ⅱ期が8世紀後葉から9世紀前半、Ⅲ期が9世紀後半に比定される。