国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
高島炭鉱跡
高島北渓井坑跡
中ノ島炭坑跡
端島炭坑跡
ふりがな
:
たかしまたんこうあと ほっけいせいこうあと なかのしまたんこうあと はしまたんこうあと
高島炭鉱跡(端島・中ノ島・高島)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
江戸末〜近代
年代
:
西暦
:
面積
:
99482.62 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
137
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2014.10.06(平成26.10.06)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
六.交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設その他経済・生産活動に関する遺跡
所在都道府県
:
長崎県
所在地(市区町村)
:
長崎県長崎市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
高島炭鉱跡(端島・中ノ島・高島)
解説文:
詳細解説
高島炭鉱跡は,三池(みいけ)・筑(ちく)豊(ほう)両炭鉱(りょうたんこう)と並ぶ,我が国近代を代表する採炭に関する遺跡である。遺跡は長崎市中心部の南西約15~20km,長崎半島の西方約5kmの海上に浮かぶ高島・中ノ島・端島に所在する。幕末,開国により蒸気船燃料としての石炭需要が高まるなか,慶応4年(1868)佐賀藩とグラバー商会との出資事業として,高島に北渓井坑が作られ,外国技術を初めて導入し,蒸気(じょうき)機関(きかん)を動力とする捲揚機(まきあげき)が設置されて採炭が行われ,明治9年(1876)まで稼働した。中ノ島炭坑は明治16年(1883)から出炭を開始,翌17年に岩崎(いわさき)弥太郎(やたろう)の三菱社(みつびししゃ)の経営となり,高島炭鉱初期の主要炭坑となったが,出水が激しく,明治26年(1893)に廃坑となった。端島炭坑は,明治23年(1890)に三菱社が買収し,設備改良等を行うことで採炭が本格化し,高島炭鉱の優良坑へと成長し,昭和49年(1974)の閉山まで操業した。端島は段階的に埋立てられ,施設整備が進むとともに,狭隘(きょうあい)な島内では居住施設が生産施設と併存し,高層集合住宅も建設された。現在,3島には明治から昭和に至る各時期の遺構が多数残り,我が国近代の石炭産業の成立と発展を知る上で重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
高島炭鉱跡(端島・中ノ島・高島)
高島炭鉱跡(北渓井坑跡発掘調査風景)
高島炭鉱跡(中ノ島炭坑跡_煉瓦遺構)
高島炭鉱跡( 端島炭坑跡_生産施設)
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高島炭鉱跡(端島・中ノ島・高島)
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高島炭鉱跡(北渓井坑跡発掘調査風景)
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高島炭鉱跡(中ノ島炭坑跡_煉瓦遺構)
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高島炭鉱跡( 端島炭坑跡_生産施設)
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解説文
高島炭鉱跡は,三池(みいけ)・筑(ちく)豊(ほう)両炭鉱(りょうたんこう)と並ぶ,我が国近代を代表する採炭に関する遺跡である。遺跡は長崎市中心部の南西約15~20km,長崎半島の西方約5kmの海上に浮かぶ高島・中ノ島・端島に所在する。幕末,開国により蒸気船燃料としての石炭需要が高まるなか,慶応4年(1868)佐賀藩とグラバー商会との出資事業として,高島に北渓井坑が作られ,外国技術を初めて導入し,蒸気(じょうき)機関(きかん)を動力とする捲揚機(まきあげき)が設置されて採炭が行われ,明治9年(1876)まで稼働した。中ノ島炭坑は明治16年(1883)から出炭を開始,翌17年に岩崎(いわさき)弥太郎(やたろう)の三菱社(みつびししゃ)の経営となり,高島炭鉱初期の主要炭坑となったが,出水が激しく,明治26年(1893)に廃坑となった。端島炭坑は,明治23年(1890)に三菱社が買収し,設備改良等を行うことで採炭が本格化し,高島炭鉱の優良坑へと成長し,昭和49年(1974)の閉山まで操業した。端島は段階的に埋立てられ,施設整備が進むとともに,狭隘(きょうあい)な島内では居住施設が生産施設と併存し,高層集合住宅も建設された。現在,3島には明治から昭和に至る各時期の遺構が多数残り,我が国近代の石炭産業の成立と発展を知る上で重要である。
詳細解説▶
詳細解説
高島炭鉱跡は、長崎市中心部の南西約20km、長崎半島の西方約5kmの海上に浮かぶ高島・中ノ島・端島に所在する、我が国近代を代表する炭鉱遺跡である。 高島・端島では、既に18世紀代、製塩業への供給を主目的とした採炭が行われていた。幕末、開国により蒸気船燃料として石炭需要が高まるなか、慶応4年(1868)に佐賀藩とグラバー商会との出資事業として、高島に蒸気機関を動力とする捲揚機を設置した、我が国最初の西洋式竪坑である北渓井坑が開鑿され、明治9年(1876)まで稼働した。また、同4年(1871)には南洋井坑(なんようせいこう)も開鑿され採炭が始められた。同7年(1874)、高島炭鉱は国有化されたが、直ぐに後藤(ごとう)象(しょう)二郎(じろう)に払い下げられ、その後、同14年(1881)には三菱社の岩崎弥太郎が高島の鉱業権を取得するに至った。三菱は同17年(1884)に中ノ島の鉱業権を、同23年(1890)には端島を取得して、次々と炭鉱開発を進めた。 高島では、明治期に多くの炭坑が開鑿されたが、大正2年(1913)以後、二子坑が主力坑として稼働した。中ノ島炭坑は、明治26年(1893)の廃坑まで、初期高島炭鉱の主力坑であった。端島では、同19年(1886)に第1竪坑が、同28年(1895)に第2竪坑が、翌年には第3竪坑が開鑿されて採炭が本格化し、高島炭鉱の優良坑となった。採掘の進展に伴い、端島は段階的に埋め立てられ、施設整備が進むとともに、狭い島内に多数の炭鉱従事者とその家族が居住できるよう、大正期以降、鉄筋コンクリート造高層集合住宅が林立して建設された。 優良品質を誇る高島炭鉱の石炭は、明治前期、主に遠洋航路汽船の燃料として長崎港から上海・香港に輸出され、明治中期以降は、国内の工業用需要、特にコークス原料炭として八幡製鉄所等に供給された。急傾斜な炭層を採掘するため、合理化と技術革新が進められ、採掘の深度化が実現した。第二次大戦後も経済復興と発展を支えたが、同49年(1974)に端島が、同61年(1986)には高島が閉山し、採炭は終了した。 今回、高島炭鉱跡として指定を図るのは、高島北渓井坑跡、中ノ島炭坑跡、端島炭坑跡の3箇所である。高島北渓井坑跡は、高島の北部海岸沿いの谷間に所在し、坑口部分が長崎市指定史跡となっている。同市が平成21及び22年度に井坑跡周辺部の発掘調査を行い、煉瓦製煙道や煙突跡等の蒸気機関に関わる遺構を検出した。また、中ノ島炭坑跡は、高島の南方2kmに位置する中ノ島に所在する。同市が平成24年に島内の遺構・構造物の分布調査を行うとともに、坑口推定部分の発掘調査を実施した。その結果、炭坑に関わる煉瓦製方形遺構や溝状遺構が良好に残存していることを確認した。 端島炭坑跡は、中ノ島の南西1kmに位置する端島に所在する。閉山後は無人となり、生産施設の多くは撤去され、居住施設は放置された。同市が平成22~24年度に実施した現況調査によれば、コンクリート構造物の崩壊や劣化が進んでいるが、端島東南部に総合事務所跡、第二竪坑跡、仕上工場跡が、東部に貯炭場跡、圧気機室跡、第4竪坑跡等が残り、埋め立ての各段階を示す護岸遺構も残る。また、大正・昭和期の鉄筋コンクリート造建物群も残存している。 このように、高島炭鉱跡は、我が国近代の産業経済の発展を支えた石炭産業の遺跡である。明治初頭から昭和に至る各時期の遺構が良好に残り、近代石炭産業の形成とその発展、変容を知る上で重要であることから、史跡に指定し、その保護を図るものである。