国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
松花堂及び書院庭園
ふりがな
:
しょうかどうおよびしょいんていえん
松花堂及び書院庭園(書院から見た庭園)
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種別1
:
名勝
種別2
:
時代
:
江戸末〜明治末
年代
:
西暦
:
面積
:
4203.7 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
138
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2014.10.06(平成26.10.06)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
一.公園、庭園
所在都道府県
:
京都府
所在地(市区町村)
:
京都府八幡市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
松花堂及び書院庭園(書院から見た庭園)
解説文:
詳細解説
洛南の名所・霊場として名高(なだか)い男山(おとこやま)・石清水八幡宮の南方には,明治初期の廃仏毀釈に伴って石清水八幡宮の泉坊(いずみのぼう)から複数回の移転を経て松花堂及び書院の一部が移築され,それらを中心として明治後半期に作庭された庭園がある。正門から書院玄関前へと通ずる導入部,松花堂の周辺の露地,書院の東に展開する枯(かれ)山水(さんすい),その南に展開する池(ち)泉(せん)・築山(つきやま)など,計4つの部分から成り,それぞれに独特の意匠・構成が見られる。
特に松花堂の露地庭には,江戸時代後期の意匠を移した痕跡が見られ,その南には書院の東に面して平明な枯山水の庭園が広がる。書院東正面の沓(くつ)脱石(ぬぎいし)から庭園へと続く飛び石との結節点には,直径1.7mもの巨大なコンクリート製の円形(えんけい)伽藍(がらん)石(せき)を模した人造石があり,明治末期の作庭の特質を表す景物(けいぶつ)として注目される。書院東庭の南側には,東車(ひがしくるま)塚(づか)古墳の墳丘後円部に手を加えて造作した巨大な築山があり,古代の墳墓を築山として取り込んだ近代庭園の事例として注目される。松花堂及び書院庭園は江戸時代後期の遺風を伝えるとともに,近代に特有の景物の在り方が随所に見られ,その芸術上の価値及び近代日本庭園史における学術上の価値は高い。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
松花堂及び書院庭園(書院から見た庭園)
松花堂及び書院庭園(書院と松花堂)
松花堂及び書院庭園(コンクリート造の飛石)
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松花堂及び書院庭園(書院から見た庭園)
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松花堂及び書院庭園(書院と松花堂)
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松花堂及び書院庭園(コンクリート造の飛石)
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解説文
洛南の名所・霊場として名高(なだか)い男山(おとこやま)・石清水八幡宮の南方には,明治初期の廃仏毀釈に伴って石清水八幡宮の泉坊(いずみのぼう)から複数回の移転を経て松花堂及び書院の一部が移築され,それらを中心として明治後半期に作庭された庭園がある。正門から書院玄関前へと通ずる導入部,松花堂の周辺の露地,書院の東に展開する枯(かれ)山水(さんすい),その南に展開する池(ち)泉(せん)・築山(つきやま)など,計4つの部分から成り,それぞれに独特の意匠・構成が見られる。 特に松花堂の露地庭には,江戸時代後期の意匠を移した痕跡が見られ,その南には書院の東に面して平明な枯山水の庭園が広がる。書院東正面の沓(くつ)脱石(ぬぎいし)から庭園へと続く飛び石との結節点には,直径1.7mもの巨大なコンクリート製の円形(えんけい)伽藍(がらん)石(せき)を模した人造石があり,明治末期の作庭の特質を表す景物(けいぶつ)として注目される。書院東庭の南側には,東車(ひがしくるま)塚(づか)古墳の墳丘後円部に手を加えて造作した巨大な築山があり,古代の墳墓を築山として取り込んだ近代庭園の事例として注目される。松花堂及び書院庭園は江戸時代後期の遺風を伝えるとともに,近代に特有の景物の在り方が随所に見られ,その芸術上の価値及び近代日本庭園史における学術上の価値は高い。
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詳細解説
洛南の名所・霊場として名高い男山(おとこやま)・石清水八幡宮の南方約1.7kmの微高地には、明治初期の廃仏毀釈に伴い、石清水八幡宮の泉坊(いずみのぼう)から複数回の移転を経て移築された松花堂及び書院の一部と、それらを中心として明治後半期に作庭された庭園がある。 松花堂は、石清水八幡宮の社僧で「寛永の三筆」にも数えられた松花堂昭乗(しょうじょう)(1582又は1584~1639)が、寛永14年(1637)に退隠閑居の場として男山の泉坊に営んだ草庵茶室に由来する。昭乗の死没後、泉坊は荒廃したが、安永9年(1780)~寛政11年(1799)に再興・整備され、秋里(あきさと)籬(り)島(とう)の『都(みやこ)林泉(りんせん)名勝(めいしょう)図会(ずえ)』等の図像により、松花堂はその露地庭とともに広く知られるようになった。しかし、明治7年(1874)に神仏分離令及び廃仏毀釈の混乱の中で石清水八幡宮にゆかりの深かった大谷治(はる)麿(まろ)の邸宅へと移築され、明治13年(1880)には国学者で地域の実力者でもあった井上忠(ただ)継(つぐ)の邸宅へ、さらに明治24年(1891)には水害の危険性の低い現在地へと移築された。その後、井上は『都(みやこ)林泉(りんせん)名勝(めいしょう)図会(ずえ)』等の古図を参照しつつ、伏見の植木屋幸七(こうしち)及び地元の大工で書院の上棟に棟梁として関わった藤下(ふじした)常吉(つねきち)と合議の上、往時の松花堂の露地庭の構成を写そうと努めたとされる。 現在の松花堂及び書院庭園は、正門から書院玄関前へと通ずる導入部、松花堂の周辺の露地、書院の東に展開する枯山水、その南に展開する池泉・築山など、計4つの部分から成る。 導入部は、東高野街道に西面して建つ正門(四(し)脚(きゃく)門(もん))から書院玄関脇の築地塀に開く梅見門(ばいけんもん)を経て書院玄関までの区間である。2条の縁石に挟まれた砂敷きの中央に花崗岩の板石を一列四半に打った幅約1.2mの延べ段が長さ32mにわたって続き、その北側には生け垣を背景に景石及び植え込みを配置し、南側には女郎花(おみなえし)塚(づか)の小さな墳丘を築山として取り込む。柿(こけら)葺(ぶ)きの梅見門を入ると狭隘な空間に3列の桟(さん)瓦(がわら)を敷き並べた延(の)べ段(だん)が直線状に延び、行く手を竹(たけ)枝(し)穂(ほ)垣(がき)に阻まれて矩形に折れ曲がり、唐(から)破風(はふ)付きの書院玄関へと連続する。 玄関の手前左手には竹枝穂垣に開く庭門があり、桟瓦敷きから霰(あられ)零(こぼ)しへと変化した延べ段に導かれて中に入ると、樹間から差し込む柔らかな光の中に松花堂とその露地庭が広がる。松花堂の北へと迂回する延べ段は途中で飛び石へと変化し、雪隠(せっちん)を伴う待合(まちあい)へと誘うもの、松花堂の西面の躙(にじ)り口(ぐち)へと誘うもの、さらには短冊石などを交えつつ松花堂の北を巡って東面の貴人(きじん)口(ぐち)、南面の桟(さん)唐(から)戸(ど)の入り口へと誘うものへと分かれる。 松花堂の露地庭から南へと延びる大ぶりの飛び石の先には、書院の東に面して平明な枯山水の庭園が広がる。その途上、書院東正面の沓脱石から庭園へと続く飛び石との結節点には、直径1.7mの巨大なコンクリート製の円形伽藍石を模した人造石が打たれており、明治末期の作庭の特質を表す景物として注目される。 書院東庭の南端は石組で護岸した堀状の流れにより区画し、さらにその南側には東車塚古墳の墳丘後円部の随所に手を加えて造作した巨大な築山がある。古代の墳墓を改造し、築山として取り込んだ近代庭園の作庭背景がうかがえる事例として注目される。 以上のように、松花堂及び書院庭園は江戸時代後期の遺風を伝えるとともに、近代に特有の景物の在り方が随所に見られ、その芸術上の価値及び近代日本庭園史における学術上の価値は高く、名勝に指定し保護を図るものである。