国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
岸和田城庭園(八陣の庭)
ふりがな
:
きしわだじょうていえん(はちじんのにわ)
岸和田城庭園(八陣の庭)(天守閣から)
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種別1
:
名勝
種別2
:
時代
:
昭和前期
年代
:
西暦
:
1953
面積
:
6581.0 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
138
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2014.10.06(平成26.10.06)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
一.公園、庭園
所在都道府県
:
大阪府
所在地(市区町村)
:
大阪府岸和田市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
岸和田城庭園(八陣の庭)(天守閣から)
解説文:
詳細解説
重森(しげもり)三(み)玲(れい)(1896~1975)は,日本の昭和期における代表的な庭園研究家及び作庭家であり,彼は生涯において約370に及ぶ歴史的庭園の実測図を作成し,200近くもの創作庭園を残した。その中でも,昭和28年(1953)に岸和田市の依頼に基づき岸和田城本丸跡に設計・作庭したのが岸和田城庭園(八陣の庭)である。
庭園の平面構成は中世の城郭(じょうかく)縄張図(なわばりず)を参考として考案されたもので,諸葛孔(しょかつこう)明(めい)の「八陣法(はちじんほう)」を主題とし,複雑な形状を成す3段の基壇の上に大将を中心として方(ほう)円陣(えんじん)の如く円形に配置された8群の石組みから成る。方円陣はもともと防御を目的としており,重森は敵を攻める陣形よりも外敵から守る陣形を8群の石組みの意匠・構成に採り入れたのだとされる。地上を巡ることにより一群の立石の立体的な造形を観賞するのみならず,立地する本丸全体の地形を含め庭園全体を岸和田城天守閣の最上階からも俯瞰するなど,水平・垂直の方向に展開する多様な視点から広く観賞することが意図された。抽象的な意匠・構成を重んじた重森の独創的な作庭理念を余すところ無く示しており,その芸術上の価値及び近代日本庭園史における学術上の価値は高い。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
岸和田城庭園(八陣の庭)(天守閣から)
岸和田城庭園(八陣の庭)(天守閣を背景に)
岸和田城庭園(八陣の庭)(石組み)
写真一覧
岸和田城庭園(八陣の庭)(天守閣から)
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岸和田城庭園(八陣の庭)(天守閣を背景に)
写真一覧
岸和田城庭園(八陣の庭)(石組み)
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解説文
重森(しげもり)三(み)玲(れい)(1896~1975)は,日本の昭和期における代表的な庭園研究家及び作庭家であり,彼は生涯において約370に及ぶ歴史的庭園の実測図を作成し,200近くもの創作庭園を残した。その中でも,昭和28年(1953)に岸和田市の依頼に基づき岸和田城本丸跡に設計・作庭したのが岸和田城庭園(八陣の庭)である。 庭園の平面構成は中世の城郭(じょうかく)縄張図(なわばりず)を参考として考案されたもので,諸葛孔(しょかつこう)明(めい)の「八陣法(はちじんほう)」を主題とし,複雑な形状を成す3段の基壇の上に大将を中心として方(ほう)円陣(えんじん)の如く円形に配置された8群の石組みから成る。方円陣はもともと防御を目的としており,重森は敵を攻める陣形よりも外敵から守る陣形を8群の石組みの意匠・構成に採り入れたのだとされる。地上を巡ることにより一群の立石の立体的な造形を観賞するのみならず,立地する本丸全体の地形を含め庭園全体を岸和田城天守閣の最上階からも俯瞰するなど,水平・垂直の方向に展開する多様な視点から広く観賞することが意図された。抽象的な意匠・構成を重んじた重森の独創的な作庭理念を余すところ無く示しており,その芸術上の価値及び近代日本庭園史における学術上の価値は高い。
詳細解説▶
詳細解説
重森(しげもり)三(み)玲(れい)(1896~1975)は、日本の昭和期における代表的な庭園研究家及び作庭家である。彼は生涯において約370に及ぶ歴史的庭園の実測図を作成し、200近くもの創作庭園を残した。 岡山県に生まれた重森は若い頃から生け花や茶に親しみ、20歳で日本美術学校に入学した後、絵画を学びつつ哲学・美学・美術史への造詣を深めた。重森が庭園の分野に本格的に取り組んだのは、室戸台風により被災した庭園の救済の一環として昭和11年(1936)に開始した実測図の作成であり、その成果を『日本庭園史圖鑑』(全26巻)にまとめた。さらに昭和14年(1939)には、最初の大作である東福寺本坊庭園を完成させたのをはじめ、戦前から戦後にかけて新たな構想の下に精力的な作庭活動を展開した。 昭和28年(1953)に、岸和田市の依頼に基づき岸和田城本丸跡に設計・作庭したのが岸和田城庭園(八陣の庭)である。庭園の四周からの観賞のみならず、翌年に本丸南端への建造が予定されていた岸和田城天守閣の最上階からの俯瞰をも意図するなど、日本古来の庭園には類を見ない独創的な構想に基づくものであった。 庭園の平面構成は、中世の城郭縄張図を参考として考案された。高さ約20cm、幅約35cmの延段風の緑泥石片岩製の基壇が3段にわたり複雑に入り組み、陣形を立体的に表現するのみならず、高所から俯瞰したときに城郭を連想させる構成となっている。 基壇上の石組みは、従来の枯山水に多く見られた神仙思想又は仏教思想などの精神的な主題に基づくものではなく、他に類例をみない諸葛孔(しょかつこう)明(めい)の「八陣法(はちじんほう)」を主題とし、大将を中心に方円陣の如く円形に配置された8つの群から成る。方円陣はもともと防御を目的としており、重森は敵を攻める陣形よりも外敵から守る陣形を8群の石組みの意匠・構成に採り入れたのだとされる。それが、「八陣の庭」の別称を持つ所以である。 石材は主として緑泥石片岩及び石英片岩を用い、上段中央には大将を象徴する石組みを、中段には虎・風を象徴する石組みを、下段には天・地・雲・龍・鳥・蛇を象徴する石組みを、それぞれ配置している。大将を表す石組みは高さ219cmの石材を含む15本の立石から成り、天を表す石組みは最高234cmの石材を含む3本の立石から成る。また、蛇を象徴する石組みは2本の石材を繋ぎ合わせて長さ416cmの伏石とし、龍を象徴する石組みは長さ265cmの石材を斜めに組むなど、変化に富んだ技法を駆使して律動感のある形姿を表現している。これらの石組みは、各々が独立しつつも相互に均衡を保ち、どの角度からの観賞にも耐え得るよう意匠されている。 作庭当初は、以前から存在した3本のクロマツの老木及び大将・虎・龍の築山の苔地以外には、余計な草木を最大限に排除した枯山水庭園であった。現在では、クロマツのうちの1本を残すのみで、石組みの周囲の苔地も残されていない。虎・龍の築山の苔地は朝鮮三国時代の四神図を象徴的に図案化したもので、白砂地に曲線を描いて出入りする築山の形姿は、上方から俯瞰することにより、周囲を巡るのとは異なる視点からの風趣を意図したものであった。 このように、岸和田城庭園(八陣の庭)は、地上を巡ることにより一群の立石の立体的な造形を観賞するのみならず、3段に重なる基壇の平面造形及び裾部を苔地に彩られた9つの立石群を、立地する本丸全体の地形とともに岸和田城天守閣の最上階からも俯瞰することにより、立地・意匠・構成の全容を展望するなど、水平・垂直の方向に展開する多様な視点から広く観賞することが意図されたところに特質があり、抽象的な意匠・構成を重んじた重森の独創的な作庭理念を余すところ無く示している。その芸術上の価値及び近代日本庭園史における学術上の価値は高く、名勝に指定して保護を図るものである。