国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
三井楽(みみらくのしま)
ふりがな
:
みいらく(みみらくのしま)
三井楽(みみらくのしま)(指定地遠景)
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種別1
:
名勝
種別2
:
時代
:
年代
:
西暦
:
面積
:
7007151.55 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
138
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2014.10.06(平成26.10.06)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
八.砂丘、砂嘴(さし)、海浜、島嶼
所在都道府県
:
長崎県
所在地(市区町村)
:
長崎県五島市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
三井楽(みみらくのしま)(指定地遠景)
解説文:
詳細解説
五島列島の福(ふく)江島(えじま)の北西端から東シナ海へと突き出た三井楽半島には,新生代新成紀(第三紀)の終末期頃に楯状(たてじょう)火山の京(きょう)ノ(の)岳(たけ)(標高182m)から噴出した溶岩流が放射状に広がり,緩やかな傾斜面から成る円形の溶岩台地を形成している。
特に,台地の縁辺部には樹木の叢生(そうせい)しない平明な草地が広がり,波打ち際に沿って大小多様な固い黒褐色の玄武岩質(げんぶがんしつ)の溶岩(ようがん)礫(れき)が露出するなど,風光明媚な海浜及び海域の風致景観が展開する。かつて草地では牛馬の放牧が行われ,牧場(まきば)としての管理が行われていたが,現在では海岸砂丘の周辺に落葉低木及び海浜性草本などが散在している。
三井楽の地は,遣唐使が派遣された時代には日本の西のさいはてにあたり,東シナ海を横断する直前の最終寄港地として利用されてきた場所である。『肥前(ひぜんの)国(くに)風土記(ふどき)』には「美禰(みね)良(ら)久(く)之(の)埼(さき)」と記し,遣唐使船に飲料用水を供給した井戸との伝承を持つ「ふぜん河(がわ)」などのゆかりの場所が残されている。10世紀の『蜻蛉(かげろう)日記(にっき)』では「亡き人に逢える島―みみらくのしま―」として紹介され,後代には異国との境界にある島又は死者に逢える西方浄土の島として広く歌枕となった。その風致景観が持つ観賞上の価値及び学術上の価値は高い。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
三井楽(みみらくのしま)(指定地遠景)
三井楽(みみらくのしま)(ふぜん河)
三井楽(みみらくのしま)(指定地近景)
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三井楽(みみらくのしま)(指定地遠景)
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三井楽(みみらくのしま)(ふぜん河)
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三井楽(みみらくのしま)(指定地近景)
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解説文
五島列島の福(ふく)江島(えじま)の北西端から東シナ海へと突き出た三井楽半島には,新生代新成紀(第三紀)の終末期頃に楯状(たてじょう)火山の京(きょう)ノ(の)岳(たけ)(標高182m)から噴出した溶岩流が放射状に広がり,緩やかな傾斜面から成る円形の溶岩台地を形成している。 特に,台地の縁辺部には樹木の叢生(そうせい)しない平明な草地が広がり,波打ち際に沿って大小多様な固い黒褐色の玄武岩質(げんぶがんしつ)の溶岩(ようがん)礫(れき)が露出するなど,風光明媚な海浜及び海域の風致景観が展開する。かつて草地では牛馬の放牧が行われ,牧場(まきば)としての管理が行われていたが,現在では海岸砂丘の周辺に落葉低木及び海浜性草本などが散在している。 三井楽の地は,遣唐使が派遣された時代には日本の西のさいはてにあたり,東シナ海を横断する直前の最終寄港地として利用されてきた場所である。『肥前(ひぜんの)国(くに)風土記(ふどき)』には「美禰(みね)良(ら)久(く)之(の)埼(さき)」と記し,遣唐使船に飲料用水を供給した井戸との伝承を持つ「ふぜん河(がわ)」などのゆかりの場所が残されている。10世紀の『蜻蛉(かげろう)日記(にっき)』では「亡き人に逢える島―みみらくのしま―」として紹介され,後代には異国との境界にある島又は死者に逢える西方浄土の島として広く歌枕となった。その風致景観が持つ観賞上の価値及び学術上の価値は高い。
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詳細解説
五島列島の最南端に位置する福江島の北西端から東シナ海へと突き出た三井楽半島には、新生代第三紀の終末期頃に楯状(たてじょう)火山である京(きょう)ノ岳(たけ)(標高182m)から噴出した溶岩流が放射状に広がり、緩やかな傾斜面から成る円形の溶岩台地を形成している。特に、台地の縁辺部には、冬季の強い偏西風により樹木の叢生しない平明な草地が広がり、西方から打ち寄せる波打ち際に沿って大小多様な固い玄武岩質の溶岩礫が露出するなど、風光明媚な海浜及び海域の風致景観が展開する。黒褐色の溶岩礫から成る海岸裸地とヤブソテツ・ハマビワなどの潅木帯との間の草地では、かつて牛馬の放牧が行われ、牧場(まきば)としての管理が行われていたが、現在では海岸砂丘の周辺にハマゴウ・ハマボウなどの落葉低木及びハマヒルガオなどの海浜性草本などが散在している。 三井楽の地は、遣唐使が派遣された時代には日本の西のさいはてにあたり、東シナ海を横断する直前の最終寄港地として利用されてきた場所である。『肥前(ひぜんの)国(くに)風土記(ふどき)』の「値嘉(ちか)鄕(ごうの)条(じょう)」に記す「美彌(みみ)良(ら)久(く)之(の)埼(さき)」は、現在の半島北部に位置する柏地区であるとされている。遣唐使一行の護衛の任にあたり、そのまま当地で亡くなった人々を祀る岩(いわ)嶽(たけ)神社(じんじゃ)をはじめ、遣唐使船に飲料用水を供給した井戸との伝承を持つ「ふぜん河(がわ)」など、柏地区には遣唐使ゆかりの場所が残されている。入唐(にっとう)八家(はっか)の一人として名高い天台僧智証(ちしょう)大師(だいし)円珍(えんちん)(814~891)も、6年に及んだ唐での求法(ぐほう)の後、天安2年(858)の帰国に際して肥前国松浦県旻美(みみ)楽埼(らくのさき)を経て大宰府の鴻臚(こうろ)館(かん)へと入ったことが知られる。 この地は古典文学にたびたび登場し、『万葉集』では山上(やまのうえ)憶(のおく)良(ら)(660?~733?)の作とされる筑前国(ちくぜんのくに)志賀(しか)島(のしま)白水郎(はくすいろう(あま))の歌十首にも「美彌良久埼」として詠われた。藤原(ふじわらの)道(みち)綱(つなの)母(はは)(936?~995)の『蜻蛉(かげろう)日記(にっき)』では、亡母を偲んで詠んだ「ありとだに よそにてもみむ なにしおはば われにきかせよ みみらくのしま」の和歌とともに、「亡き人に逢える島」として紹介された。また、平安時代後期の歌人として著名な源(みなもとの)俊頼(としより)(1055~1129)も、『蜻蛉日記』と同様に亡き人に逢える島として和歌に詠んだ。『散(さん)木(ぼく)奇(き)歌(か)集(しゅう)』に収められた俊頼の和歌は後代の歌界に大きな影響を与え、12世紀末期の歌僧顕(けん)昭(しょう)(1130?~1209)が編纂した和歌の注釈書である『袖中抄(しゅうちゅうしょう)』(第三)において、三井楽は歌枕「みみらくのしま」として定着した。こうして三井楽(美禰良久)は、日本の西のさいはての地であるとともに、異国との境界にある島又は死者に逢える西方浄土の島として、広くその表象が後代へと受け継がれていった。 江戸時代前期の本草学者である貝原(かいばら)益軒(えきけん)(1630~1714)が元禄15年(1702)に著した『扶桑記(ふそうき)略(りゃく)』には「みらく」と記し、福岡藩の家老である立花(たちばな)実山(じつざん)(1655~1708)が宝永元年(1704)に出版した『江(こう)海風(かいふう)帆(はん)草(そう)』には「みいらく」と伝えるなど、次第に現在の地名である「三井(みい)楽(らく)」へと変容する過程がうかがえる。 以上のように、三井楽半島の溶岩礫・草地から成る海浜とそれに連なる海域は、遣唐使が大陸を目指して東シナ海を横断する旅に船出した場所であり、亡き死者に相(あい)見(まみ)えることのできる西のさいはての地として歌枕にも定着した。その風致景観が持つ観賞上の価値及び学術上の価値は高く、名勝に指定し保護を図るものである。