国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
旧新町紡績所
ふりがな
:
きゅうしんまちぼうせきじょ
旧新町紡績所(工場本館)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
明治~昭和
年代
:
西暦
:
面積
:
10589.02 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
68
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2015.10.07(平成27.10.07)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
六.交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設その他経済・生産活動に関する遺跡
所在都道府県
:
群馬県
所在地(市区町村)
:
群馬県高崎市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
旧新町紡績所(工場本館)
解説文:
詳細解説
明治10年(1877)群馬県新町に操業開始した我が国最初の絹糸紡績工場。佐々木長淳(ながあつ)のヨーロッパでの紡績業などの視察報告に基づき,内務省が官営工場として設立した。創業時の動力は,工場付近を流れる温井川(ぬくいがわ)を利用した水力と蒸気で,原料はそれまで安価で輸出されていた屑繭(くずまゆ)・屑糸(くずいと)を使用し,紡績絹糸を製造した。明治20年(1887)三越(みつこし)呉服店に払い下げられ,明治35年(1902)には企業合同により絹糸紡績株式会社新町工場となり,さらに明治44年(1911)の合併により鐘淵(かねがふち)紡績(ぼうせき)株式会社の経営となった。工場は,絹糸紡績業を昭和50年まで続けた。現在はクラシエフーズ株式会社新町工場の一部として使用されている。現存遺構としては,明治10年に建設された工場本館(ほんかん)がある。創建時の柱,小屋組(こやぐみ),東及び北側外壁などの大半は現存している。工場本館の構造は,木造平屋建(もくぞうひらやだて),切妻屋根桟瓦(きりづまやねさんがわら)葺き,外大壁下見板張(そとおおかべしたみいたば)りで,小屋組はキングポストトラスである。また,明治時代に建築された機関室(きかんしつ)なども現存する。このように,明治時代の殖産興業(しょくさんこうぎょう)の実態を知る上で貴重な遺跡である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
旧新町紡績所(工場本館)
旧新町紡績所(工場本館に現存する創建期工場の外壁部分)
旧新町紡績所(機関室・煙突基礎)
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旧新町紡績所(工場本館)
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旧新町紡績所(工場本館に現存する創建期工場の外壁部分)
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旧新町紡績所(機関室・煙突基礎)
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解説文
明治10年(1877)群馬県新町に操業開始した我が国最初の絹糸紡績工場。佐々木長淳(ながあつ)のヨーロッパでの紡績業などの視察報告に基づき,内務省が官営工場として設立した。創業時の動力は,工場付近を流れる温井川(ぬくいがわ)を利用した水力と蒸気で,原料はそれまで安価で輸出されていた屑繭(くずまゆ)・屑糸(くずいと)を使用し,紡績絹糸を製造した。明治20年(1887)三越(みつこし)呉服店に払い下げられ,明治35年(1902)には企業合同により絹糸紡績株式会社新町工場となり,さらに明治44年(1911)の合併により鐘淵(かねがふち)紡績(ぼうせき)株式会社の経営となった。工場は,絹糸紡績業を昭和50年まで続けた。現在はクラシエフーズ株式会社新町工場の一部として使用されている。現存遺構としては,明治10年に建設された工場本館(ほんかん)がある。創建時の柱,小屋組(こやぐみ),東及び北側外壁などの大半は現存している。工場本館の構造は,木造平屋建(もくぞうひらやだて),切妻屋根桟瓦(きりづまやねさんがわら)葺き,外大壁下見板張(そとおおかべしたみいたば)りで,小屋組はキングポストトラスである。また,明治時代に建築された機関室(きかんしつ)なども現存する。このように,明治時代の殖産興業(しょくさんこうぎょう)の実態を知る上で貴重な遺跡である。
詳細解説▶
詳細解説
旧新町紡績所は明治10年(1877)群馬県新町に操業開始したわが国最初の絹糸(けんし)紡績工場である。明治6年(1873)にウィーン博覧会に派遣された工部省の佐々木長淳(ささきながあつ)が、スイスで紡績業の技術を視察し、帰国後の明治7年に屑糸(くずいと)紡績所の設立を内務省に陳情した。設立目的としては、日本では知識と技術がなかったために屑糸・屑繭を安価で輸出していたが、その屑糸・屑繭を使った紡績業の利益は多大であり、早急に興業の基礎を確立しようとするためであった。明治8年に武蔵・甲斐・相模・上野を視察し、養蚕が盛んで、かつ、温井(ぬくい)川の水利の良い、旧上野国緑野郡(みどのぐん)新町が選ばれた。 明治9年に内務省勧業寮屑糸紡績所として建設工事に着工し、明治10年7月に内務省勧農局所管「上州新町屑糸紡績所」として操業を開始した。紡績機械はスイス、水車機関や蒸気機関はドイツに発注し、建築設計はウィーン博覧会に派遣された山添喜三郎(やまぞえきさぶろう)が、ドイツ人技師の補佐を受け行ったと推定されている。明治14年に農商務省工務局の所管となり、明治15年には新町紡績所と改称する。 原料は屑糸・屑繭を使用し、動力は水力と蒸気で、そばを流れる温井川上流から水路を引き、温井川に排水した。創業から払い下げを受けるまでの約10年の間、開業年度の欠損を除けば利益を上げた年の方が多かった。また、生産量は各年の生糸生産状況や屑糸・屑繭の質や状態に左右されたものの、工場の成立は屑糸・屑繭の価格上昇に寄与した。原料は主に群馬県内から仕入れ、販売先は縮緬産業が盛んな丹後が多かった。 明治20年(1887)三越得右衛門に払い下げられ、三越呉服店の経営となり新町三越紡績所と称された。明治31年には水車が廃止され、動力は蒸気となるなど、この頃には機械の大幅な増設と建物の増築が行われた。明治35年(1902)には絹糸紡績6社の合同により絹糸紡績株式会社新町工場となり、明治42年に絹糸紡績機械は京都工場などに移設され、新町工場は紬糸(ちゅうし)工場となった。さらに明治44年(1911)の合併により鐘淵紡績株式会社(のちのカネボウ)の経営となり、鐘淵紡績株式会社新町支店と改称し、紡績業や紬糸業が行われた。大正10年(1921)からは製糸業、第二次大戦後は織布業も行われたが、昭和50年に紡績業は中止され、新町工場での繊維産業は終了した。平成5年にカネボウフーズ(平成19年にクラシエフーズに社名変更)株式会社新町工場となって、現在は食品工場として建物を大切に保存しながら操業している。 平成15年に行われた国立科学博物館の清水慶一らの調査により官営時の遺構が残存していることが明らかになり、平成24年からは高崎市教育委員会により調査が行われた。現存遺構としてはまず、明治10年に建築された木造平屋の工場本館がある。創業当時はロの字形配置をとっており、中庭があった。明治42年(1909)までに中庭部分が増築されるとともに南側部分は撤去されたものの、創建時の柱・小屋組、東及び北側壁などの大部分は現存している。明治10年創建部分は切妻屋根桟瓦(さんがわら)葺、外大壁下見板張りで、木鼻(きばな)の繰形や窓の意匠に特徴があり、小屋組はキングポストトラスである。そして、増築部分は同じく木造平屋、鋸屋根桟瓦葺である。現在は鉄工所として使われており大正5年(1916)に建築された修繕舎は、官営期の「器械製造所」を改造移転した可能性が高い。このように、これほど官営工場の建造物が良好な状態で保存されている例は極めて稀である。この他にも、明治後期に建設された機関室、工務室、男工控室、煙突基礎や大正時代に建てられた変電所、ポンプ室等もある。 このように、官営期の建物が良好に残り、明治時代の官営工場や殖産興業の実態及びその後の繊維産業の発展過程を理解するうえで重要であることから、史跡に指定して、その保護を図ろうとするものである。