国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
耳取遺跡
ふりがな
:
みみとりいせき
耳取遺跡(晩期建物)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
縄文
年代
:
西暦
:
面積
:
39418.68 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
68
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2015.10.07(平成27.10.07)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
2018.02.13(平成30.02.13)
指定基準
:
一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡
所在都道府県
:
新潟県
所在地(市区町村)
:
新潟県見附市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
耳取遺跡(晩期建物)
解説文:
詳細解説
耳取遺跡は,新潟平野東部の東山丘陵から派生する標高76mの尾根上の平坦地に立地する縄文時代の3時期に及ぶ集落跡である。
縄文時代中期中葉の集落は丘陵の中央部に広がり,南北60m,東西70mの南西部が開口する馬蹄形集落(ばていけいしゅうらく)を呈し,ヒスイ製大珠(たいしゅ)が2点出土している。後期前葉の集落は丘陵の中央部から西側にかけて広がり,直径18mの中央広場を有する南北200m,東西118mの環状集落(かんじょうしゅうらく)となる。集落の北端と東端及び中央広場からは多数の人骨片が出土しており,墓域の存在も想定される。なお,この集落の規模は16,000㎡となり北陸地域では最大級になる。晩期後葉の集落は丘陵の東側に広がり,直径50cmの柱痕が確認できる直径130cmの柱穴からなる亀甲形(きっこうがた)の掘立柱建物が多数認められ,南東部の斜面部には土器捨て場も存在する。
このように耳取遺跡は,縄文時代中期中葉・後期前葉・晩期後葉の構造がわかる集落が一つの遺跡で確認できる,北陸地域では極めて稀有な遺跡である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
耳取遺跡(晩期建物)
耳取遺跡(中期炉址)
耳取遺跡(後期集落)
耳取遺跡(ヒスイ大珠)
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耳取遺跡(晩期建物)
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耳取遺跡(中期炉址)
写真一覧
耳取遺跡(後期集落)
写真一覧
耳取遺跡(ヒスイ大珠)
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解説文
耳取遺跡は,新潟平野東部の東山丘陵から派生する標高76mの尾根上の平坦地に立地する縄文時代の3時期に及ぶ集落跡である。 縄文時代中期中葉の集落は丘陵の中央部に広がり,南北60m,東西70mの南西部が開口する馬蹄形集落(ばていけいしゅうらく)を呈し,ヒスイ製大珠(たいしゅ)が2点出土している。後期前葉の集落は丘陵の中央部から西側にかけて広がり,直径18mの中央広場を有する南北200m,東西118mの環状集落(かんじょうしゅうらく)となる。集落の北端と東端及び中央広場からは多数の人骨片が出土しており,墓域の存在も想定される。なお,この集落の規模は16,000㎡となり北陸地域では最大級になる。晩期後葉の集落は丘陵の東側に広がり,直径50cmの柱痕が確認できる直径130cmの柱穴からなる亀甲形(きっこうがた)の掘立柱建物が多数認められ,南東部の斜面部には土器捨て場も存在する。 このように耳取遺跡は,縄文時代中期中葉・後期前葉・晩期後葉の構造がわかる集落が一つの遺跡で確認できる,北陸地域では極めて稀有な遺跡である。
詳細解説▶
詳細解説
耳取遺跡は、新潟県のほぼ中央部に位置し、新潟平野の東側に南北に連なる東山丘陵から西側へ派生する標高76mの尾根の平坦部に立地した、縄文時代中期中葉・後期前葉・晩期後葉の3時期にわたって営まれた集落跡である。 この遺跡は明治時代から縄文土器や石器が多量に採集される遺跡としてその存在が知られていた。見附市教育委員会では、昭和42年に遺跡の内容を確認するための発掘調査を行い、続いて開発計画が発生した昭和62年には改めて範囲と内容を確認するための発掘調査を実施して、遺跡の遺存状況が広範囲にわたって極めて良好であることを確認した。その後、この遺跡の重要性に鑑み、保存と活用を進めるために必要となる遺跡の詳細な構造を把握するため、平成23年度から26年度まで発掘調査を実施した。その結果、縄文時代草創期から弥生時代前期まで断続的に続く遺跡であり、主要となるのは縄文時代中期中葉・後期前葉・晩期後葉の3時期であることが判明した。 縄文時代中期中葉の集落は、丘陵の中央部に広がる。卵形の長楕円形の竪穴建物13棟のほかに土器埋設石囲炉・土器敷石囲炉・地床炉も多数検出され、これらの配置から南北約60m、東西約70mの南西部が開口する馬蹄形を呈する集落になると考えられる。この時期に所属する注目すべき遺物としては、10.6㎝の大型のヒスイ製大珠2点がある。 縄文時代後期前葉の集落は、丘陵の中央部から西側にかけて広がる。現在まで円形の竪穴建物が24棟、長方形の掘立柱建物が42棟検出され、これらの配置から中央部に直径18mの中央広場を有する、南北200m、東西118mの大規模な環状集落になると考えられる。なお、この環状部の北端と東端、そして中央広場の南側からは人骨片が散乱して出土することから、それぞれの場所には墓域が存在する可能性がある。また、北側斜面には土器捨て場も確認できた。 縄文時代晩期後葉の集落は丘陵の東側に、南北130m、東西100mの範囲に広がり、直径50cmの柱痕が内部に確認できる直径130cmの柱穴からなる亀甲形の掘立柱建物が2棟確認された。このほかにも、トレンチ調査であるため平面プランは確認できていないが、同様の柱穴がこの丘陵の東側に多数存在していることから、実際にはかなりの棟数の亀甲形の掘立柱建物が存在するものと考えられる。なお、この時期の土器捨て場は、丘陵の南東側の急斜面部に確認されている。 このように耳取遺跡は、縄文時代中期中葉・後期前葉・晩期後葉の3時期の集落の全体像と詳細な構造がそれぞれに明確に把握できるだけではなく、それが1つの遺跡に重なって存在するという、北陸地方では極めて稀有な事例である。特に、後期前葉の集落については総面積が16,000㎡になり、北陸地方の当該期では最大規模の拠点的な集落になると考えられる。よって、史跡に指定して保護を図ろうとするものである。