国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
加越国境城跡群及び道 切山城跡 松根城跡 小原越
ふりがな
:
かえつくにざかいしろあとぐんおよびみち きりやまじょうあと まつねじょうあと おはらごえ
加越国境城跡群及び道(切山城跡 横堀跡)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
9世紀~16世紀後半
年代
:
西暦
:
面積
:
116131.04 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
68
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2015.10.07(平成27.10.07)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
六.交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設その他経済・生産活動に関する遺跡
所在都道府県
:
2県以上
所在地(市区町村)
:
富山県小矢部市,石川県金沢市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
加越国境城跡群及び道(切山城跡 横堀跡)
解説文:
詳細解説
加越国境城跡群及び道は,北陸道から分岐する小原越(おはらごえ)や田近越(たぢかごえ)などの脇街道に沿って築城され,加賀前田方(かがまえだがた)と越中佐々方(えっちゅうさっさがた)との攻防の舞台となった城跡群と,道(街道)からなる遺跡である。今回は,小原越と,そこに沿う切山城跡及び松根城跡を対象にする。
両城とも平坦面,切岸(きりぎし),堀切(ほりきり),櫓台(やぐらだい),虎口(こぐち)等が良好に遺存している。切山城跡は,東西約200m,南北250mの規模で,発掘調査により門跡や,タイのソントー鉱山産の鉛で作られた鉄砲玉等が発見されている。東端の横堀の規模が大きく,越中側からの攻撃に備えて築城ないし改修された城跡である可能性が高い。松根城跡は加賀と越中の境となる砺波山(となみやま)丘陵の最高所に位置し,東西約140m,南北約440mの規模で,門跡や道跡等が発見されている。西端の幅25mの大堀切によって尾根上の道跡が切断されており,近世以後の小原越の道筋は,城が廃城となったのちに,大堀切を迂回するルートとして用いられたものと考えられる。両城の中間地点には,近世に山番所が置かれた平坦面とともに,中近世の小原越の道筋が良好に残る場所がある。
加越国境城跡群及び道は,加賀・越中を舞台とする前田方と佐々方の攻防を考える上で重要な城跡群であり,街道と城跡の関係を考える上でも極めて重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
加越国境城跡群及び道(切山城跡 横堀跡)
加越国境城跡群及び道(松根城跡 主郭)
加越国境城跡群及び道(小原越)
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加越国境城跡群及び道(切山城跡 横堀跡)
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加越国境城跡群及び道(松根城跡 主郭)
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加越国境城跡群及び道(小原越)
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解説文
加越国境城跡群及び道は,北陸道から分岐する小原越(おはらごえ)や田近越(たぢかごえ)などの脇街道に沿って築城され,加賀前田方(かがまえだがた)と越中佐々方(えっちゅうさっさがた)との攻防の舞台となった城跡群と,道(街道)からなる遺跡である。今回は,小原越と,そこに沿う切山城跡及び松根城跡を対象にする。 両城とも平坦面,切岸(きりぎし),堀切(ほりきり),櫓台(やぐらだい),虎口(こぐち)等が良好に遺存している。切山城跡は,東西約200m,南北250mの規模で,発掘調査により門跡や,タイのソントー鉱山産の鉛で作られた鉄砲玉等が発見されている。東端の横堀の規模が大きく,越中側からの攻撃に備えて築城ないし改修された城跡である可能性が高い。松根城跡は加賀と越中の境となる砺波山(となみやま)丘陵の最高所に位置し,東西約140m,南北約440mの規模で,門跡や道跡等が発見されている。西端の幅25mの大堀切によって尾根上の道跡が切断されており,近世以後の小原越の道筋は,城が廃城となったのちに,大堀切を迂回するルートとして用いられたものと考えられる。両城の中間地点には,近世に山番所が置かれた平坦面とともに,中近世の小原越の道筋が良好に残る場所がある。 加越国境城跡群及び道は,加賀・越中を舞台とする前田方と佐々方の攻防を考える上で重要な城跡群であり,街道と城跡の関係を考える上でも極めて重要である。
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詳細解説
加越国境城跡群及び道は、北陸道(北国街道)から分岐する小原越や田近越などの脇街道に沿って築城され、加賀前田方と越中佐々方との攻防の舞台となった城跡群と道(街道)とからなる遺跡である。今回、小原越と、そこに沿うふたつの城跡が対象となる。 切山城跡と松根城跡はともに近世の地誌類に取り上げられているが、本格的な調査は昭和53年から54年にかけての金沢市教育委員会による松根城跡の測量調査と発掘調査に始まる。そこで小原越との関係も論じられるようになった。以後、石川県教育委員会による歴史の道の調査や中世城館跡の悉皆調査が実施され、縄張り図も作成された。富山県教育委員会の調査では、松根城跡の立地や縄張りの特徴が北方の一乗寺城跡(小矢部市)と類似することが指摘された。なお、松根城跡は金沢市により平成12年から13年に公園整備がなされている。平成13年から14年にかけて金沢市が切山城跡の測量調査を実施し、それらの調査成果を踏まえて、金沢市は平成23年より、遺跡の年代等を明らかとするための発掘調査等に取り組んだ。 切山城跡は東西約200m、南北約250mの規模で、平坦面、切岸、堀切、横堀、土塁、櫓台、虎口等がよく残っている。東端を横堀、西端を堀切によって画している。調査により、主郭の馬出に至る土橋際にて、門跡と考えられる礎石と、門脇土塁において柵列ないし塀の柱穴を検出した。また、出土した鉄砲玉はタイのソントー鉱山産鉛である可能性が高く、16世紀後半から17世紀前葉頃に位置付けられるものであった。東端の横堀が規模が大きく、越中側からの攻撃に備えて築城ないし改修された城である可能性が高い。 松根城跡は砺波山丘陵を越える小原越の最高所(標高308m)に位置し、加賀(金沢市)と越中(小矢部市)との境となっている。南北朝時代の古文書に「松根之陣」とみえるものもこの地に関係し、のちに一向一揆勢も拠ったと考えられる軍事・交通の要衝である。城跡は東西約140m、南北約440mの規模で、北端と西端を大堀切が遮断する。平坦面、切岸、堀切、横堀、土塁、櫓台、虎口等がよく残り、発掘調査により門跡や道跡等を検出した。出土遺物には16世紀後半の土師器皿や越前焼の甕、珠洲焼の甕のほか、9世紀頃の灰釉陶器、13世紀から14世紀頃の土師器皿などがあり、複数の時期に使用された遺跡であることが窺えた。注目すべきは、西端の幅約25mの大堀切によって道跡が切断されていることが判明したことである。これまでは大堀切を迂回し、城跡の南端部を通過する道が中世以来の小原越と考えられてきたが、加賀側からの侵攻を防ぐために尾根上の道を切断したもので、これまで道としてきたものは廃城後に道となった蓋然性が高い。 小原越の調査では、尾根筋に幅1m前後の浅いくぼみを確認することができ、それらは、現在小原越と伝わる掘割道や林道の存在する場所に近接していることから、中世の道は尾根筋を通っていたことが考えられるようになった。切山城跡及び松根城跡周辺や両者のほぼ中間地点にあたるドンバ峰地区において尾根道と幅の狭い掘割道が確認できる。ドンバ地区には、北国街道の宿駅を通らずに、越中側から金沢城下に運ばれる抜荷を取り締まる山番所が置かれたと伝えられる平坦面が存在する。 天正12年(1584)、羽柴秀吉と織田・徳川連合軍による小牧・長久手の戦いを契機に、越中の佐々成政は反秀吉へと転換し、秀吉方の前田利家と敵対した。佐々方と前田方の攻防が以後加越国境において展開する。上杉景勝家臣須田満親から利家に宛てた書状(9月18日付け須田満親書状〈東京大学史料編纂所影写本〉)からは、成政が叛旗を翻し、「栗柄(倶利伽羅)・小原口」で軍事行動をとっていることがわかる。「小原口」は小原越に限定できないと考えられるが、小原越を含む脇街道においても激しい攻防が展開されていたことが想定される。天正13年に入ると次第に前田方が優勢となり、秀吉遠征軍の登場によって成政が降伏するに至る。 このように加越国境城跡群及び道は加賀・越中を舞台とする前田方と佐々方の攻防を考えるうえで重要な城跡群であり、街道と城との関係を考えるうえでも極めて重要である。よって、ふたつの城跡と、小原越のうち山番所が置かれた平坦面を含む遺存状況が良好な箇所を史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。