国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
橘樹官衙遺跡群
ふりがな
:
たちばなかんがいせきぐん
橘樹官衙遺跡群(正倉跡)
写真一覧▶
解説表示▶
種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
7世紀~10世紀
年代
:
西暦
:
面積
:
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
38
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2015.03.10(平成27.03.10)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
2022.03.15(令和4.03.15)
指定基準
:
二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在都道府県
:
神奈川県
所在地(市区町村)
:
神奈川県川崎市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
橘樹官衙遺跡群(正倉跡)
解説文:
詳細解説
標高約40mの多摩丘陵の頂部に立地する武蔵国(むさしのくに)橘樹郡家(たちばなぐうけ)(郡衙(ぐんが))正倉跡(しょうそうあと)と考えられる千年伊勢山台(ちとせいせやまだい)遺跡と評(ひょう)の役所の施設の可能性のある掘立柱(ほったてばしら)建物跡なども検出された郡寺跡(ぐんでらあと)である影向寺(ようごうじ)遺跡からなる。千年伊勢山台遺跡では,評の役所の成立直前から郡家正倉廃絶に至る4時期の変遷が確認された。遺跡は7世紀後半に大壁建物(おおかべたてもの)が造られることを契機に,7世紀後半から8世紀には,規則性をもって配置された総柱(そうばしら)建物4棟と側柱建物6棟が造られ,8世紀前半には,建物の主軸をほぼ真北にそろえる少なくとも13棟の総柱建物が造られる。これらの建物は9世紀中頃には廃絶しており,評と郡の正倉の構造の違いや,本格的な郡家正倉へ整えられていく様子がうかがえる。
郡寺は,7世紀後半から8世紀前半に創建され,8世紀中頃には塔(とう)の造営と金堂(こんどう)の改修が行われ,10世紀初頭まで補修が行われていたことが確認されている。出土瓦などから,南武蔵の中心的な寺院であったと考えられる。
地方官衙の成立から廃絶に至るまでの経過をたどることができる希有な遺跡であり,その成立の背景や構造の変化の過程が判明するなど,7世紀から10世紀の官衙の実態とその推移を知る上で重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
橘樹官衙遺跡群(正倉跡)
橘樹官衙遺跡群(倉庫跡)
橘樹官衙遺跡群(影向寺遺跡出土瓦)
写真一覧
橘樹官衙遺跡群(正倉跡)
写真一覧
橘樹官衙遺跡群(倉庫跡)
写真一覧
橘樹官衙遺跡群(影向寺遺跡出土瓦)
解説文
標高約40mの多摩丘陵の頂部に立地する武蔵国(むさしのくに)橘樹郡家(たちばなぐうけ)(郡衙(ぐんが))正倉跡(しょうそうあと)と考えられる千年伊勢山台(ちとせいせやまだい)遺跡と評(ひょう)の役所の施設の可能性のある掘立柱(ほったてばしら)建物跡なども検出された郡寺跡(ぐんでらあと)である影向寺(ようごうじ)遺跡からなる。千年伊勢山台遺跡では,評の役所の成立直前から郡家正倉廃絶に至る4時期の変遷が確認された。遺跡は7世紀後半に大壁建物(おおかべたてもの)が造られることを契機に,7世紀後半から8世紀には,規則性をもって配置された総柱(そうばしら)建物4棟と側柱建物6棟が造られ,8世紀前半には,建物の主軸をほぼ真北にそろえる少なくとも13棟の総柱建物が造られる。これらの建物は9世紀中頃には廃絶しており,評と郡の正倉の構造の違いや,本格的な郡家正倉へ整えられていく様子がうかがえる。 郡寺は,7世紀後半から8世紀前半に創建され,8世紀中頃には塔(とう)の造営と金堂(こんどう)の改修が行われ,10世紀初頭まで補修が行われていたことが確認されている。出土瓦などから,南武蔵の中心的な寺院であったと考えられる。 地方官衙の成立から廃絶に至るまでの経過をたどることができる希有な遺跡であり,その成立の背景や構造の変化の過程が判明するなど,7世紀から10世紀の官衙の実態とその推移を知る上で重要である。
詳細解説▶
詳細解説
橘樹官衙遺跡群は、多摩川中流域の南岸、川崎市高津区千年、宮前区野川の標高約40mの多摩丘陵東南端の頂部に立地する武蔵国橘樹郡家(たちばなぐうけ)(郡衙)正倉跡と考えられる千年伊勢山台(ちとせいせやまだい)遺跡と評の役所の施設の可能性のある掘立柱建物跡なども検出された郡寺跡と考えられる影向寺(ようごうじ)遺跡からなる。『日本書紀』安閑元年条には、朝廷に献上された屯倉(みやけ)のひとつに橘花(たちばな)が見られること、また、この遺跡群の周辺には、複数の後期・終末期古墳が認められることから、この付近が古墳時代以来、8世紀には橘樹郡となる地域の中心であったと考えられている。 千年伊勢山台遺跡は、平成8年に宅地造成事業に先立って行われた発掘調査で、古代の倉庫跡と考えられる掘立柱建物が複数検出されたことにより存在が明らかになり、以後、川崎市教育委員会による継続的な発掘調査により、その内容が明らかになった。検出された遺構は、大きく4時期に区分される。 Ⅰ期は建物の主軸を真北から約40度西に振る2棟の大壁建物からなる。時期は7世紀後半であり、評の役所の造営に関わる建物である可能性が考えられる。神護景雲二年(768)に武蔵国久良郡で獲た白雉を献上して叙位・賜禄された飛鳥部吉志(あすかべのきし)五百国は「橘樹郡人」と記されており(『続日本紀』神護景雲2年6月21日条)、Ⅰ期における大壁建物の存在は、渡来系氏族である吉志の一族との関係が指摘されている。 Ⅱ期は建物の主軸を真北から約30度西に振る三間四方の総柱建物4棟と、桁行2間、梁行4間以上の側柱建物6棟からなる。時期は7世紀後半から8世紀前半であり、当初から同規格の建物が建てられている事例は全国的にも珍しい。また、側柱建物のうち4棟は、総柱建物と距離を置き一定の間隔で配置されおり、正倉を構成する屋(おく)とみる見方と稲以外のものを収納していた可能性が指摘されている。 Ⅲ期になると建物の主軸は、ほぼ真北を向くようになるとともに、正倉院の北方、西方、南方に溝を巡らせるようになる。溝で囲まれた区画は南北150m程度、東西200m程度と考えられ、13棟の総柱建物と5棟の側柱建物が認められた。区画の中央には広い空閑地があり、その西には正倉管理棟あるいは頴屋(えいおく)と考えられる側柱建物がある。8世紀前半から末にかけて存続したと考えられており、正倉として最も整備された段階のものである。 Ⅳ期には建物の建て替えや新造は行われるものの、建て替えられた建物はいずれも小規模であり、正倉そのものは衰退へと向かっており、9世紀中頃には廃絶している。 千年伊勢山台遺跡の西方約400mの地点には、現在、影向寺がある。この寺は橘樹郡の郡寺の法灯を受け継ぐ寺院と考えられ、昭和52~56年にかけて日本大学が実施した発掘調査等によって、7世紀後半~8世紀前半に創建され、8世紀中頃には塔の造営と金堂の改修が行われ、10世紀初頭まで補修が行われていたことが確認されている。金堂跡は、現在の影向寺の本堂である元禄年間に建立された薬師堂基壇下で検出されており、塔跡は金堂跡の南東約50mの地点、影向石と呼ばれる塔心礎のある地点で検出されている。 また、寺院下層からは千年伊勢山台遺跡Ⅰ期建物と主軸を同じくする7世紀後半の大型建物が検出されており、これは当地における支配者階層の邸宅か評の役所の重要施設である可能性が指摘されている。 出土瓦の中には「无射志国荏原評(えばらのこおり)」の文字瓦があり、創建に際し武蔵国南部の評の協力があったと推定される。また、補修瓦の中には武蔵国衙系瓦屋の南多摩窯跡群で生産されたものが含まれていることなどから、この寺は南武蔵の中心的な寺院であったと考えられる。 橘樹官衙遺跡群は地方官衙の成立から廃絶に至るまでの経過をたどることができる希有な遺跡であり、その成立の背景や構造の変化の過程が判明するなど、7~10世紀の郡家の実態とその推移を知ることができる。これは、評成立以前の屯倉の段階も含め、国家による地方支配の実態とその推移を知る上で重要である。よって、史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。 令和3年10月11日追加指定説明 橘樹官衙遺跡群は,多摩川中流域の南岸,標高約40mの多摩丘陵東南端の頂部に立地する武蔵国橘樹郡家(郡衙)正倉跡と考えられる千年(ちとせ)伊勢山(いせやま)台(だい)遺(い)跡と評の役所の施設の可能性のある掘立柱建物などを検出した古代寺院跡である影(よう)向寺(ごうじ)遺跡からなる。この遺跡群の周辺には,複数の後期・終末期古墳が認められることから,付近が古墳時代以来,8世紀には橘樹郡となる地域の中心であったと考えられる。 千年伊勢山台遺跡では,古代の施設と考えられる一辺の長さ約10mの溝で方形に区画された施設や古代の倉庫跡と考えられる掘立柱建物を複数検出した。7世紀中頃に,方形に溝を巡らせた10基の施設が構築されるのにはじまり,7世紀後半から8世紀前半には,北で約30度西に振れる総柱建物4棟,側柱建物6棟に建て替えられる。8世紀前半から末には建物方位が正方位となるとともに,正倉院を区画する素掘り溝が設けられる。この区画は南北135m程度,東西210m程度あり,総柱建物13棟と側柱建物5棟が認められるなど,正倉院として最も整備が行われた。その後,正倉院そのものは衰退へと向かい,9世紀中頃には廃絶する。 千年伊勢山台遺跡の西方約400mの地点には影向寺遺跡がある。金堂跡は,現在の影向寺の本堂である薬師堂基壇下で検出しており,9世紀中葉以降に建てられた塔跡は金堂跡の南東約50mの地点,影向石と呼ばれる塔心礎のある地点で検出した。出土瓦に見られる「无(む)射(ざ)志(し)国(のくに)荏原評(えばらのこおり)」の文字から,創建に際し武蔵国南部の評の協力があったことが想定され,また,補修瓦に武蔵国衙系瓦屋の南多摩窯跡群で生産されたものが含まれていることなどから,この寺は南武蔵の中心的な寺院であったと考えられる。 橘樹官衙遺跡群は地方官衙の成立から廃絶に至るまでの経過をたどることができる重要な遺跡であることから,平成27年に史跡に指定された。今回,条件の整った範囲を追加指定し,保護の万全を図るものである。