国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
下寺尾官衙遺跡群
ふりがな
:
しもてらおかんがいせきぐん
下寺尾官衙遺跡群(正倉跡)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
7世紀末~9世紀後半
年代
:
西暦
:
面積
:
54450.51 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
38
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2015.03.10(平成27.03.10)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
2018.02.13(平成30.02.13)
指定基準
:
二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在都道府県
:
神奈川県
所在地(市区町村)
:
神奈川県茅ヶ崎市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
下寺尾官衙遺跡群(正倉跡)
解説文:
詳細解説
小出川を望む標高約13mの相模原台地頂部に位置する相模国(さがみのくに)高座郡家(たかくらぐうけ)(郡衙(ぐんが))と考えられる下寺尾官衙遺跡(西方遺跡)と台地の南裾に位置する下寺尾廃寺跡(はいじあと)(七堂伽藍跡(しちどうがらんあと))からなる。遺跡の西側では8世紀後半から9世紀前半にかけての船着き場と祭祀場が検出され,寺跡の南東でも祭祀場(さいしじょう)が検出されているなど,高座郡家に関連する施設が,相模原台地を中心とする比較的狭い範囲に集中していることが確認されている。
郡庁(ぐんちょう)は7世紀末から8世紀前半に成立し,四面廂付(しめんびさしつき)の掘立柱建物である正殿(せいでん)と,脇殿(わきでん),後殿(こうでん)から成っていたものが,8世紀中頃に改変され9世紀前半に廃絶する。正倉は,郡庁後殿から約100mの空閑地を挟み,台地の北縁に沿って4棟検出されているが8世紀中頃には廃絶している。下寺尾廃寺跡は,郡庁南西の台地裾の低地に位置する。掘立柱塀による方形の区画の東側北寄りに金堂,西側の中央付近に講堂と考えられる建物を置く伽藍は7世紀後半の創建と考えられ,8世紀中頃以降に大きく改変され,9世紀後半に廃絶する。
官衙遺跡の全体像が把握できるとともに,その成立から廃絶に至るまでの過程が確認できる希有な遺跡であり,地方官衙の構造や立地を知る上でも重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
下寺尾官衙遺跡群(正倉跡)
下寺尾官衙遺跡群(郡庁跡)
下寺尾官衙遺跡群(出土遺物)
下寺尾官衙遺跡群(遠景)
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下寺尾官衙遺跡群(正倉跡)
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下寺尾官衙遺跡群(郡庁跡)
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下寺尾官衙遺跡群(出土遺物)
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下寺尾官衙遺跡群(遠景)
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解説文
小出川を望む標高約13mの相模原台地頂部に位置する相模国(さがみのくに)高座郡家(たかくらぐうけ)(郡衙(ぐんが))と考えられる下寺尾官衙遺跡(西方遺跡)と台地の南裾に位置する下寺尾廃寺跡(はいじあと)(七堂伽藍跡(しちどうがらんあと))からなる。遺跡の西側では8世紀後半から9世紀前半にかけての船着き場と祭祀場が検出され,寺跡の南東でも祭祀場(さいしじょう)が検出されているなど,高座郡家に関連する施設が,相模原台地を中心とする比較的狭い範囲に集中していることが確認されている。 郡庁(ぐんちょう)は7世紀末から8世紀前半に成立し,四面廂付(しめんびさしつき)の掘立柱建物である正殿(せいでん)と,脇殿(わきでん),後殿(こうでん)から成っていたものが,8世紀中頃に改変され9世紀前半に廃絶する。正倉は,郡庁後殿から約100mの空閑地を挟み,台地の北縁に沿って4棟検出されているが8世紀中頃には廃絶している。下寺尾廃寺跡は,郡庁南西の台地裾の低地に位置する。掘立柱塀による方形の区画の東側北寄りに金堂,西側の中央付近に講堂と考えられる建物を置く伽藍は7世紀後半の創建と考えられ,8世紀中頃以降に大きく改変され,9世紀後半に廃絶する。 官衙遺跡の全体像が把握できるとともに,その成立から廃絶に至るまでの過程が確認できる希有な遺跡であり,地方官衙の構造や立地を知る上でも重要である。
詳細解説▶
詳細解説
下寺尾官衙遺跡群は、相模湾の北方約5km、小出川を望む標高約13mの相模原台地頂部に立地する相模国高座郡家(たかくらぐうけ)(郡衙)と考えられる西方(にしかた)遺跡と台地の南裾に位置する郡寺と考えられる下寺尾廃寺跡(七堂伽藍跡)からなる。遺跡の西側を流れる小出川の改修工事では、河川改修に伴う発掘調査で8世紀後半から9世紀前半にかけて機能した船着き場と祭祀場が検出され、下寺尾廃寺跡の南東でも祭祀場が検出されているなど、高座郡家に関連する施設が、相模原台地を中心とする比較的狭い範囲に集中していることが確認されている。 西方遺跡は、平成14年に財団法人かながわ考古学財団が行った神奈川県立茅ヶ崎北陵高校グランドの発掘調査で郡庁跡と正倉跡と考えられる複数の掘立柱建物と竪穴建物が検出されたことにより存在が明らかになった。当初は開発目的の事前調査として開始されたが、遺構の重要性に鑑み、現状保存されることになった。 検出された古代の遺構は竪穴建物36棟、掘立柱建物19棟、柵4列などで、7世紀後半に調査地北側に8棟の竪穴建物が造られている。これらは、官衙造営集落である可能性が指摘される。郡庁は調査地南部で検出されており、2期の変遷が確認された。当初の郡庁は、桁行5間以上、梁行1間以上の四面廂付と考えられる正殿と、桁行6間以上、梁行2間の東脇殿と、桁行8間以上、梁行2間の後殿などからなる。いずれも掘立柱建物であり、時期は7世紀末から8世紀前半と考えられる。 8世紀中頃には東脇殿と後殿が撤去され、掘立柱塀により郡庁域を方形に区画するようになる。正殿もその頃に建て替えられるとともに、正殿北東に性格不明の二間四方の掘立柱建物が建てられる。これらの建物は9世紀前半頃に廃絶したと推定されている。 正倉は郡庁後殿から約100mの空閑地を挟み、相模原台地の北縁に沿って4棟検出されている。全体が確認された3棟の建物は、いずれも3間四方の掘立柱の総柱建物であり、これらの建物は主軸がそろい、その南側には桁行12間以上、梁行2間の掘立柱建物が検出されている。郡庁の成立からさほど時間を置かずに建てられたと考えられるが、建て替えは認められず、8世紀中頃の竪穴建物により一部が破壊されていることから、この頃には正倉が他の場所に移されたと考えられる。郡庁と正倉の間の空閑地には、8世紀中頃に厨あるいは館の可能性が指摘されている掘立柱建物が5棟造られる。これらの建物群はロの字形に配置されており、少なくとも1回の建て替えが認められる。 また、茅ヶ崎市教育委員会が実施した範囲を確認する発掘調査では、官衙域の東と西を画する溝が検出されている。これによると、官衙域は東西約270mに復元できる。 下寺尾廃寺跡は、郡庁の南西約170mの砂丘上に位置する。この寺の存在は昭和16年頃には既に知られていたようで、昭和32年には地元の有志により「七堂伽藍跡」という石碑が建てられた。保存に向けての発掘調査は平成12年度から茅ヶ崎市教育委員会により開始され、掘立柱塀による方形の区画の東側北寄りに金堂、西側の中央付近に講堂と考えられる建物を置く伽藍であることが判明した。掘立柱塀による区画は、8世紀中頃以降に溝に変更されている。創建時期は7世紀後半に遡る可能性が示されており、8世紀前半には伽藍が完成したとみられている。金堂は大規模な掘込地業を伴う基壇建物であり、8世紀中頃に再建され、9世紀後半に廃絶したと考えられる。講堂と考えられる建物は桁行7間、梁行3間の身舎に四面廂が付く大型掘立柱建物で、8世紀前半に創建され、中頃に礎石建ち建物に改変された可能性が指摘されている。金堂と同様、9世紀後半に廃絶したと考えられるが、10世紀中頃にこの場所に礎石建ちの仏堂が建てられている。 出土した軒瓦には相模国分寺や国府域から出土するものと同笵のものがあり、国衙工房により造営にあたって援助が行われた可能性がある。また、銅匙や銅製懸仏、経軸端金具、二彩陶器香炉などの仏教関係遺物の出土も豊富である。 下寺尾官衙遺跡群は郡庁、正倉、郡寺、津、祭祀場といった郡家を構成する諸施設が比較的狭い範囲に密集していることに特徴がある。また官衙遺跡群の全体像が把握できるとともに、その成立から廃絶に至るまでの過程が確認できる希有な遺跡群である。さらに、小出川を利用した水運との関係が指摘されるなど地方官衙の立地を知る上でも重要である。よって、史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。