国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
東京湾要塞跡
猿島砲台跡
千代ヶ崎砲台跡
ふりがな
:
とうきょうわんようさいあと
さるしまほうだいあと
ちよがさきほうだいあと
東京湾要塞跡・猿島砲台跡(塁道と階段)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
明治時代
年代
:
西暦
:
面積
:
66595.04 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
38
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2015.03.10(平成27.03.10)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在都道府県
:
神奈川県
所在地(市区町村)
:
神奈川県横須賀市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
東京湾要塞跡・猿島砲台跡(塁道と階段)
解説文:
詳細解説
東京湾要塞跡は,明治時代,首都東京と横須賀軍港等を防衛するため,東京湾岸一帯に築かれた陸軍要塞の遺跡である。このうち猿島砲台跡は,横須賀市の横須賀新港沖合い1.7kmの猿島に所在する。明治14年(1881)11月起工,同17年6月竣工した,要塞最初期の砲台である。島内には,砲座,砲側(ほうそく)弾薬庫,棲息掩蔽部(せいそくえんぺいぶ)等の砲台施設,砲台間を連絡する煉瓦造隧道(れんがぞうずいどう),隧道内の二層構造の弾薬元庫,電気灯機関舎(木造小屋組(もくぞうこやぐみ),煉瓦造(れんがぞう)平屋建て),送電施設,布積(ぬのづみ)の海岸護岸等の施設が良好に残る。また,千代ヶ崎砲台跡は,同市東端部,浦賀湾口の南岸の丘陵上に位置する。明治25年(1892)起工,同28年に竣工した砲台である。南北の直線上に1砲座(ほうざ)2砲床(ほうしょう)の3砲座が配置され,砲座は西側に平行して存在する塁道(るいどう)と地下交通路で連絡し,塁道―砲座間の地下には砲側弾薬庫,掩蔽部(えんぺいぶ),貯水所などの地下施設が付帯する。このように,猿島・千代ヶ崎両砲台跡は,明治時代,東京湾防衛のため西洋の築城技術を導入して築城された東京湾要塞を構成する砲台跡である。築造当初の姿を良好にとどめ,我が国近代の軍事,築城技術の具体的様相を理解するうえで重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
東京湾要塞跡・猿島砲台跡(塁道と階段)
東京湾要塞跡・猿島砲台跡
東京湾要塞跡・千代ヶ崎砲台跡(塁道)
東京湾要塞跡・千代ヶ崎砲台跡(砲座跡)
東京湾要塞跡・千代ヶ崎砲台跡
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東京湾要塞跡・猿島砲台跡(塁道と階段)
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東京湾要塞跡・猿島砲台跡
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東京湾要塞跡・千代ヶ崎砲台跡(塁道)
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東京湾要塞跡・千代ヶ崎砲台跡(砲座跡)
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東京湾要塞跡・千代ヶ崎砲台跡
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解説文
東京湾要塞跡は,明治時代,首都東京と横須賀軍港等を防衛するため,東京湾岸一帯に築かれた陸軍要塞の遺跡である。このうち猿島砲台跡は,横須賀市の横須賀新港沖合い1.7kmの猿島に所在する。明治14年(1881)11月起工,同17年6月竣工した,要塞最初期の砲台である。島内には,砲座,砲側(ほうそく)弾薬庫,棲息掩蔽部(せいそくえんぺいぶ)等の砲台施設,砲台間を連絡する煉瓦造隧道(れんがぞうずいどう),隧道内の二層構造の弾薬元庫,電気灯機関舎(木造小屋組(もくぞうこやぐみ),煉瓦造(れんがぞう)平屋建て),送電施設,布積(ぬのづみ)の海岸護岸等の施設が良好に残る。また,千代ヶ崎砲台跡は,同市東端部,浦賀湾口の南岸の丘陵上に位置する。明治25年(1892)起工,同28年に竣工した砲台である。南北の直線上に1砲座(ほうざ)2砲床(ほうしょう)の3砲座が配置され,砲座は西側に平行して存在する塁道(るいどう)と地下交通路で連絡し,塁道―砲座間の地下には砲側弾薬庫,掩蔽部(えんぺいぶ),貯水所などの地下施設が付帯する。このように,猿島・千代ヶ崎両砲台跡は,明治時代,東京湾防衛のため西洋の築城技術を導入して築城された東京湾要塞を構成する砲台跡である。築造当初の姿を良好にとどめ,我が国近代の軍事,築城技術の具体的様相を理解するうえで重要である。
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詳細解説
東京湾要塞跡は、明治時代、首都東京と横須賀軍港等を防衛するため、東京湾岸一帯に築かれた陸軍要塞の遺跡であり、猿島砲台跡は横須賀市の横須賀新港沖合い1.7㎞の猿島に、千代ヶ崎砲台跡は同市東端部、浦賀湾口の南岸の丘陵上に位置する。 明治政府は、江戸幕府や諸藩等が海防のため設置した台場に代えて、西洋の築城技術を本格的に導入し、東京湾・対馬・下関・由良(ゆら)・広島湾・芸予(げいよ)・佐世保・舞鶴・長崎・函館等の軍事的要衝に要塞を設け、海岸砲台・堡塁(ほるい)等の施設を整備していった。そのうち、東京湾要塞は、近代日本で最初に建設された要塞であり、明治13年(1880)起工の観音崎(かんのんざき)砲台(神奈川県)を嚆矢として、明治10年代と同20年代後半には、富津岬(ふっつみさき)(千葉県)・観音崎間の海峡で東京湾内湾への侵入を阻止する湾口防衛の沿岸砲台群が、同20年代後半には、海軍の鎮守府(ちんじゅふ)や海軍工廠(こうしょう)が置かれた横須賀・長浦両軍港を防衛する砲台群が建設された。その後も改修等が進められ、大正期以降は、既存砲台の廃止や改築を行うとともに、東京湾外湾と相模湾に面する砲台群が築かれ、要塞整理が進められたが、昭和20年(1945)の終戦により廃止された。 猿島砲台跡は、明治14年(1881)11月に起工、同17年(1884)6月に竣工し、観音崎砲台に次いで作られた最初期に属する砲台であり、富津岬・観音崎間の海峡を挟んで置かれた砲台群及び第一~第三海堡(かいほ)と連携し、東京湾内湾への敵艦船の侵入阻止、及び横須賀・長浦両軍港の防御を任務とした。幕末の大輪戸台場等の築造に伴い造成された頂上平坦部(標高約40m)を利用し、当初、第一・第二・第三砲台の3砲台を置いたが、まもなく中央部の砲台を観測所(司令所)に改変、加農砲(かのんほう)2砲台(27cm加農砲2門、24cm加農砲4門を備砲)となった。関東大震災後で被災し、大正14年(1925)に除籍、跡地は海軍に移管された。島の北側平坦部に第一砲台(1砲座1砲床(ほうしょう)の2砲座)、南側平坦部に第二砲台(1砲座1砲床の4砲座)を、いずれも南北方向に配する。砲座の西側背後に高塁道(こうるいどう)が走り、さらに背後には切り通し状の塁道(るいどう)を設ける。砲台地下には弾薬庫や掩蔽部(えんぺいぶ)を設け、砲台間は塁道・隧道で連絡する。横須賀市教育委員会が平成12年以降、継続して発掘調査を実施した結果、第一・第二砲台には、砲座、砲側(ほうそく)弾薬庫、棲息(せいそく)掩蔽部等の施設、両砲台を連絡する煉瓦造隧道(れんがぞうずいどう)、隧道内の二層構造の弾薬元庫(もとこ)、第一砲台の塁道(素掘壁)、第二砲台塁道(切石によるブラフ積(づみ)被覆壁)、電気灯機関舎(木造小屋組、煉瓦造平屋建て)、送電施設、布積(ぬのづみ)の海岸護岸等の施設が残る。砲側弾薬庫や棲息掩蔽部、隧道等の煉瓦建造物の煉瓦はフランス積である。 千代ヶ崎砲台跡は、天保8年(1837)のモリソン号事件で発砲したことで知られる平根山台場の跡地に位置する。明治25年(1892)に起工、同28年(1895)に竣工した海岸砲台である。榴弾砲(りゅうだんほう)砲台(28cm榴弾砲6門を備砲)と、近接防御(きんせつぼうぎょ)砲台(15cm臼砲(きゅうほう)4門、機関砲(きかんほう)4門等を備砲)から構成され、前者は観音崎堡塁群の南方海上と浦賀湾口の海正面防御、後者は上陸した敵兵に対する防御を役割とした。横須賀市教育委員会が平成23年に測量・現状調査を実施した。榴弾砲砲台は、南北の直線上に1砲座2砲床の3砲座が配置され、砲座は西側に平行して存在する塁道と地下交通路で連絡し、塁道―砲座間の地下には砲側弾薬庫、掩蔽部、貯水所などの地下施設が付帯する。煉瓦組積法はすべてオランダ積で、隧道内施設の前面壁と室内、交通路の脚壁では普通煉瓦、露天(ろてん)空間に設けられた施設の前面壁、あるいは露天空間と接する隧道の出入り口には、雨水に対する防水と帯水防止のため焼過煉瓦(やきすぎれんが)を用いる。 このように、猿島砲台跡と千代ヶ崎砲台跡は、明治時代、東京湾防衛のために西洋の築城技術を導入して、陸軍が造営した東京湾要塞を構成する砲台跡である。築造当初の姿を良好にとどめ、我が国近代の軍事、築城技術の具体的様相を理解するうえで重要であることから、史跡に指定して、その保護をはかるものである。