国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
加茂遺跡
ふりがな
:
かもいせき
加茂遺跡(建物跡)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
奈良時代~平安時代
年代
:
西暦
:
面積
:
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
38
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2015.03.10(平成27.03.10)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡,六.交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設その他経済・生産活動に関する遺跡
所在都道府県
:
石川県
所在地(市区町村)
:
石川県河北郡津幡町
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
加茂遺跡(建物跡)
解説文:
詳細解説
河北潟(かほくがた)と宝達(ほうだつ)山脈とに挟まれた平野部に位置し,加賀国・越中国・能登国の境界付近にあたり,遺跡の東端付近を北陸道(ほくりくどう)駅路(えきろ)が通過している。平成12年の調査では,駅路側溝(そっこう)に連結する大溝から百姓の心得を記した加賀郡牓示札(ぼうじふだ)をはじめとする複数の木簡が出土し注目を集めた。河北潟につながる東西方向の南北2本の大溝に沿って,倉庫をはじめとする複数の掘立柱(ほったてばしら)建物や仏堂跡が検出されている。
駅路の敷設と廃絶時期が南北二つの大溝周辺の掘立柱建物群の成立時期と廃絶時期に合致すること,二つの大溝は遺跡と河北潟を結ぶ運河としての機能が考えられ,大溝の岸に沿って倉庫群が造られていることなどから,この遺跡は日本海の海上交通と北陸道駅路を用いた物資の運搬に関わる公的な性格が考えられる。また加賀郡牓示札等の出土木簡からは,百姓の管理のための施設や剗(せき)としての機能も有していたことが推測される。
水陸双方の交通に関連する施設であるとともに,百姓の管理などさまざまな機能を持った加賀郡家(かがぐうけ)(郡衙(ぐんが))の出先機関である可能性が考えられ,奈良時代から平安時代の交通政策のみならず,地方支配の実態を知る上で重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
加茂遺跡(建物跡)
加茂遺跡(仏堂跡)
加茂遺跡(遠景)
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加茂遺跡(建物跡)
写真一覧
加茂遺跡(仏堂跡)
写真一覧
加茂遺跡(遠景)
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解説文
河北潟(かほくがた)と宝達(ほうだつ)山脈とに挟まれた平野部に位置し,加賀国・越中国・能登国の境界付近にあたり,遺跡の東端付近を北陸道(ほくりくどう)駅路(えきろ)が通過している。平成12年の調査では,駅路側溝(そっこう)に連結する大溝から百姓の心得を記した加賀郡牓示札(ぼうじふだ)をはじめとする複数の木簡が出土し注目を集めた。河北潟につながる東西方向の南北2本の大溝に沿って,倉庫をはじめとする複数の掘立柱(ほったてばしら)建物や仏堂跡が検出されている。 駅路の敷設と廃絶時期が南北二つの大溝周辺の掘立柱建物群の成立時期と廃絶時期に合致すること,二つの大溝は遺跡と河北潟を結ぶ運河としての機能が考えられ,大溝の岸に沿って倉庫群が造られていることなどから,この遺跡は日本海の海上交通と北陸道駅路を用いた物資の運搬に関わる公的な性格が考えられる。また加賀郡牓示札等の出土木簡からは,百姓の管理のための施設や剗(せき)としての機能も有していたことが推測される。 水陸双方の交通に関連する施設であるとともに,百姓の管理などさまざまな機能を持った加賀郡家(かがぐうけ)(郡衙(ぐんが))の出先機関である可能性が考えられ,奈良時代から平安時代の交通政策のみならず,地方支配の実態を知る上で重要である。
詳細解説▶
詳細解説
加茂遺跡は、石川県の中央部、河北潟と宝達(ほうだつ)山脈とに挟まれた平野部に位置する。遺跡は加賀国(弘仁14年(823)越前国から分立)・越中国・能登国(養老2年(718)越前国から分立、天平13年(741)越中国に併合、天平宝字元年(757)再び分立)三国の境界付近にあたり、河北潟と西へ向かって延びる山裾とによって、平野の幅が最も狭くなる部分に立地し、遺跡の東端付近を北陸道駅路が通過している。金沢平野における北陸道駅路は、加茂遺跡の南方約2kmの地点で、倶利伽羅峠を越えて越中国へと向かう本道と、能登国へと向かう支路とに分岐する。 加茂遺跡は、昭和33年に舟橋川付け替え工事の際に発見され、昭和34年と昭和47年に遺跡の内容を確認するための発掘調査が実施された。昭和62年から平成12年にかけて、国道8号バイパス建設に伴う発掘調査が石川県立埋蔵文化財保存協会及び石川県立埋蔵文化財センターによって実施され、北陸道駅路や河北潟につながる東西方向の大溝、掘立柱建物群が良好な状態で検出された。特に、平成12年の調査では、駅路側溝に連結する大溝から加賀郡牓示札(ぼうじふだ)をはじめとする複数の木簡が出土し、駅路跡と牓示札出土地点周辺が保存され、整備された。なお、この牓示札は平成22年に重要文化財に指定されている。平成13年からは津幡町教育委員会が、遺跡の範囲と内容を確認することを目的とする発掘調査を平成22年にかけて実施した。 遺跡は、東西方向の2本の大溝に沿って展開しており、南側の大溝(石川県立埋蔵文化財センター調査)は、8世紀前半に開削され10世紀前半に埋没する。南大溝は、幅2.5m、深さ0.4~1mで、当初は北陸道駅路の路面を横断していたが、9世紀末に北陸道駅路西側溝に合流するように付け替えられ、駅路と一体のものとして機能するようになる。大溝の南側では複数の掘立柱建物が検出されている。掘立柱建物は8世紀後半にその数を増すが、その多くは小型の倉庫であり、これらは大溝に沿って分布する傾向を示す。その後、何度かの改変を経て、10世紀初頭に廃絶する。 北側の大溝(津幡町教育委員会調査)は、7世紀前半に開削され10世紀前半に埋没する。大溝は、幅5.8~10m、深さ1.2~1.5mで、北岸に沿って倉庫を含む8世紀前半から10世紀前半にかけての複数の掘立柱建物跡や9世紀後半に創建され10世紀前半に廃絶する南北4間、東西2間以上の礎石建ち瓦葺きの仏堂跡が検出された。出土した墨書土器から寺名は「鴨寺」であったことが判明し、また、瓦当面が楕円形を呈する小型軒丸瓦と軒平瓦の他、小型鬼瓦や鴟尾が出土している。 北陸道駅路は8世紀前半以前に作道され、当初は側溝心々間距離が約7.5mであったものが、8世紀末に東側溝が付け替えられることによって5mに縮小し、9世紀末以降に廃絶している。部分的に粗砂による盛り土や護岸のための杭が検出されている。駅路の敷設と廃絶時期が南北二つの大溝の周辺で認められた掘立柱建物群の成立時期と廃絶時期に合致すること、南北二つの大溝は遺跡と河北潟を結ぶ運河としての機能が考えられ、大溝の岸に沿って倉庫群が造られていることなどから、この遺跡は日本海の海上交通と北陸道駅路を用いた物資の運搬に関わる公的な性格が考えられる。 また、南側の大溝から出土した加賀郡牓示札と文書木簡には、百姓への伝達事項や百姓の消息を報告する旨が記されている。こうした百姓の管理に関わる木簡の出土は、本遺跡が牓示札に見える深見村の百姓を管理するための施設である可能性を示す。さらに、木簡群の中には、過所木簡も出土していることから、剗(せき)としての機能も有していたことが推測される。 このように加茂遺跡は、水陸双方の交通に関連する施設であるとともに、百姓の管理施設などさまざまな機能をもった加賀郡家(郡衙)の出先機関である可能性が考えられる。奈良時代から平安時代の交通政策を知る希有な例であり、地方支配の実態を知る上でも重要である。よって、史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。