国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
高岡城跡
ふりがな
:
たかおかじょうあと
高岡城跡(遠景)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
近世初頭
年代
:
西暦
:
面積
:
240072.47 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
38
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2015.03.10(平成27.03.10)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在都道府県
:
富山県
所在地(市区町村)
:
富山県高岡市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
高岡城跡(遠景)
解説文:
詳細解説
高岡城跡は,加賀藩主を隠居した前田利長(としなが)が,自らの新たな隠居城として,また,加賀藩の東の拠点として,慶長14年(1609)に築城した城跡であり,富山県高岡市の中心部,小矢部川(おやべがわ)と庄川(しょうがわ)とに挟まれた高岡台地上に位置する。利長は慶長10年(1605)家督を弟利常(としつね)に譲った後も利常の藩政を支えていたが,同14年(1609)居城である富山城が焼失したため,新たな居城として高岡城を築造した。同19年に利長が没し,翌元和元年(1615)一国一城令により高岡城は廃城となったが,その後も藩の米蔵,塩蔵が置かれ,維持管理された。明治維新後は公園として整備されて今日に至った。城の規模は長辺648m,短辺416m,その縄張(なわばり)は「聚楽第型(じゅらくだいがた)」とも呼ばれるもので,中央に巨大な本丸を設け,西側を除く外側の3面に整然と馬出郭(うまだしぐるわ)を配する点に特徴があり,周囲に堀を巡らし,各郭の形状は直線的な方形を基調とする。高岡市教育委員会による発掘調査によって,本丸御殿に関わる礎石や石組み遺構を検出する等,遺構が良好に遺存していることが確認された。近世初頭の政治・軍事の状況や築城技術を知る上で重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
高岡城跡(遠景)
高岡城跡(堀跡と石垣)
高岡城跡(内堀)
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高岡城跡(遠景)
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高岡城跡(堀跡と石垣)
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高岡城跡(内堀)
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解説文
高岡城跡は,加賀藩主を隠居した前田利長(としなが)が,自らの新たな隠居城として,また,加賀藩の東の拠点として,慶長14年(1609)に築城した城跡であり,富山県高岡市の中心部,小矢部川(おやべがわ)と庄川(しょうがわ)とに挟まれた高岡台地上に位置する。利長は慶長10年(1605)家督を弟利常(としつね)に譲った後も利常の藩政を支えていたが,同14年(1609)居城である富山城が焼失したため,新たな居城として高岡城を築造した。同19年に利長が没し,翌元和元年(1615)一国一城令により高岡城は廃城となったが,その後も藩の米蔵,塩蔵が置かれ,維持管理された。明治維新後は公園として整備されて今日に至った。城の規模は長辺648m,短辺416m,その縄張(なわばり)は「聚楽第型(じゅらくだいがた)」とも呼ばれるもので,中央に巨大な本丸を設け,西側を除く外側の3面に整然と馬出郭(うまだしぐるわ)を配する点に特徴があり,周囲に堀を巡らし,各郭の形状は直線的な方形を基調とする。高岡市教育委員会による発掘調査によって,本丸御殿に関わる礎石や石組み遺構を検出する等,遺構が良好に遺存していることが確認された。近世初頭の政治・軍事の状況や築城技術を知る上で重要である。
詳細解説▶
詳細解説
高岡城跡は、加賀藩主(かがはんしゅ)を隠居した前田利長(まえだとしなが)が慶長14年(1609)、自らの居城として築城した城跡である。城跡は、富山県高岡市の中心部、小矢部川(おやべがわ)と庄川(しょうがわ)とに挟まれた高岡台地上に位置する。 前田利長は、永禄(えいろく)5年(1562)利家(としいえ)の子として生まれ、慶長3年(1598)家督を継いで加賀藩二代藩主となり、利家の没後は豊臣(とよとみ)政権の五大老(ごたいろう)に列したが、徳川家康と対立、母芳春院(ほうしゅんいん)を江戸に人質として出し、同5年(1600)、関ヶ原の戦いでは東軍に属した功により、加増を受けて加賀・能登(のと)・越中(えっちゅう)三箇国119万石の大名となった。同10年(1605)家督を弟利常(としつね)に譲るも、養老領として越中国新川郡(にいかわぐん)22万石を領しながら、利常を支えて前田家存続の策を廻らした。同14年(1609)3月に居城の富山城(とやまじょう)が焼失したため、新たに同国射水郡(いみずぐん)関野を選んで築城を開始し、9月に完成して入城、地名も高岡と改称した。同15年(1610)に腫れ物を生じ次第に悪化、同19年(1614)には、領地を幕府の意に任せ高岡城を破却し京都に隠棲することを願い許されたが、5月、53才にて高岡城に没した。翌元和元年(1615)一国一城令により高岡城は廃城となったが、その後も藩の米蔵、塩蔵が置かれ、維持管理された。明治維新後、城跡は払い下げの危機があったが、高岡町民の強い運動によって公園指定の請願がなされ、明治8年(1875)、太政官(だじょうかん)布告に基づく高岡公園となり、明治末年には作庭家長岡安平(ながおかやすへい)による公園改良設計も行われた。戦後も引き続き都市公園(高岡古城公園)として機能し、富山県指定史跡にも指定されている。 高岡市教育委員会では、平成20年度から24年度にかけて、高岡城跡の測量・発掘調査、地中レーダー探査、石垣調査、文献調査等を実施した。高岡城跡は、台地上の最高所(標高約15~20m)を選び、その段丘崖や谷を利用して塁壁や堀が造られた。城の規模は長辺648m、短辺416m、その縄張は天正15年(1587)に豊臣秀吉が築いた聚楽第の影響を受けた「聚楽第型(じゅらくだいがた)」とも呼ばれるものである。中央に巨大な本丸を設け、西側を除く外側の3面に整然と馬出郭(うまだしくるわ)を配する点に大きな特徴があり、本丸の周囲を馬出で二重に重ねる、極めて防御性の強い構造である。各郭(くるわ)は、やや台形状の二の丸を除けば、直線的な方形を基調とし、本丸正面には土橋(どばし)を通って馬出の機能を有する二の丸が置かれ、更に東に鍛冶丸(かじまる)を設けて大手口(おおてぐち)を守る。本丸の搦手口(からめてぐち)は北東部に設けた車橋(くるまばし)(貫土橋(かんどばし))を通じて北側の郭に出、さらに東側に三の丸を設けて搦手口を守る。各郭は縁辺部に土塁を設け、幅20~30mほどの水堀を廻らす。城跡の北端には、築城時に盛土整地された小竹藪(おたけやぶ)とよぶ場所があり、普請が未完であった可能性があるが外郭と位置付けられる。発掘調査によって、本丸御殿に関わる礎石や石組み遺構を、貫土橋周辺では栗石層と本丸に向かう道遺構を、鍛冶丸と三の丸を結ぶ明丸(あきまる)では土塁が版築状に築かれている状況を検出する等、遺構が良好に遺存していることを確認した。城の塁壁は基本的に土作りの構造であるが、本丸の大手土橋と搦手橋台部には石垣が施されている。本丸土橋の石垣には砂岩・安山岩・花崗岩が用いられ、刻印は金沢城や名古屋城と共通する前田家の石工集団によるものである。石垣の石材の石丁場(いしちょうば)として虻(あぶ)が島(しま)(高岡市)ほか8箇所が推定されている。近代以降、城跡に射水(いみず)神社や公共施設等が設けられ、池之端堀に中ノ島が作られる等、改変を受けた部分もあるが、各郭及び水堀の平面形状は築城当初の状態を良く留めている。このほか、築城等に関する文献史料、城絵図等も多数残っている。 このように、高岡城跡は、豊臣から徳川への政権移行期の政治・軍事的緊張のなか、江戸幕府と微妙な関係にあった前田利長が、自らの新たな隠居城として、また、加賀藩の東の拠点として造営した城跡である。本丸の周囲に二重の馬出郭を配し、郭の周囲に堀を巡らした特徴的な城郭遺構が良好に残る。近世初頭の政治・軍事の状況や築城技術を知る上で貴重であることから、史跡に指定して、その保護を図るものである。