国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
神雄寺跡
ふりがな
:
かみおでらあと
神雄寺跡(遠景)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
8世紀中頃~9世紀初頭
年代
:
西暦
:
面積
:
33063.68 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
38
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2015.03.10(平成27.03.10)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
2017.02.09(平成29.02.09)
指定基準
:
三.社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡
所在都道府県
:
京都府
所在地(市区町村)
:
京都府木津川市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
神雄寺跡(遠景)
解説文:
詳細解説
神雄寺跡は,木津と奈良の平野部を画する奈良山(ならやま)丘陵の北東端に位置する8世紀中頃から9世紀初頭に営まれた山林寺院である。発掘調査の結果,天神山(てんじんやま)丘陵南斜面に,流路と建物5棟,井戸1基などが検出された。丘陵裾部には平坦面を造成して,須弥壇(しゅみだん)をもつ礎石建(そせきだ)ちの小型の仏堂と方一間の小型の多重塔(たじゅうとう)もしくは多宝塔(たほうとう)が建てられた。谷部には,仏堂と中心軸を合わせて東西3間,南北2間の掘立柱(ほったてばしら)建物の礼堂(らいどう)及び流路が配置された。これらの建物は8世紀中葉に建立され,塔のみが10世紀まで存続したが,他は9世紀初頭までには廃絶した。谷部の流路からは,5,000点以上の灯明皿(とうみょうざら),少なくとも上二句が『万葉集』に所収されたものと一致する歌が書かれた歌木簡,楽器,彩釉(さいゆう)山水陶器,緑釉及び三彩陶器,墨書土器などが出土した。これらの遺物からは,歌の詠唱を伴う儀式や燃灯供養(ねんとうくよう),悔過法要(けかほうよう)などの仏教儀礼が行われたと考えられる。また流路からは,神雄寺と書かれた墨書土器が多数出土し,文献には認められないが,寺の名称は「神雄寺」であり,「かみおでら」のほか「かんのうでら」,「かんのうじ」,「じんゆうじ」,「かむのをでら」などと呼ばれていたと考えられる。神雄寺跡は遺構と遺物が良好に遺存しており,そこで行われた仏教儀礼の在り方を知ることができる全国的にも稀な寺院跡であり,奈良時代の仏教の展開を考える上でも重要な遺跡である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
添付ファイル
なし
写真一覧
神雄寺跡(遠景)
神雄寺跡(灯明皿出土状況)
神雄寺跡(出土墨書土器)
神雄寺跡(仏堂)
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神雄寺跡(遠景)
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神雄寺跡(灯明皿出土状況)
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神雄寺跡(出土墨書土器)
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神雄寺跡(仏堂)
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解説文
神雄寺跡は,木津と奈良の平野部を画する奈良山(ならやま)丘陵の北東端に位置する8世紀中頃から9世紀初頭に営まれた山林寺院である。発掘調査の結果,天神山(てんじんやま)丘陵南斜面に,流路と建物5棟,井戸1基などが検出された。丘陵裾部には平坦面を造成して,須弥壇(しゅみだん)をもつ礎石建(そせきだ)ちの小型の仏堂と方一間の小型の多重塔(たじゅうとう)もしくは多宝塔(たほうとう)が建てられた。谷部には,仏堂と中心軸を合わせて東西3間,南北2間の掘立柱(ほったてばしら)建物の礼堂(らいどう)及び流路が配置された。これらの建物は8世紀中葉に建立され,塔のみが10世紀まで存続したが,他は9世紀初頭までには廃絶した。谷部の流路からは,5,000点以上の灯明皿(とうみょうざら),少なくとも上二句が『万葉集』に所収されたものと一致する歌が書かれた歌木簡,楽器,彩釉(さいゆう)山水陶器,緑釉及び三彩陶器,墨書土器などが出土した。これらの遺物からは,歌の詠唱を伴う儀式や燃灯供養(ねんとうくよう),悔過法要(けかほうよう)などの仏教儀礼が行われたと考えられる。また流路からは,神雄寺と書かれた墨書土器が多数出土し,文献には認められないが,寺の名称は「神雄寺」であり,「かみおでら」のほか「かんのうでら」,「かんのうじ」,「じんゆうじ」,「かむのをでら」などと呼ばれていたと考えられる。神雄寺跡は遺構と遺物が良好に遺存しており,そこで行われた仏教儀礼の在り方を知ることができる全国的にも稀な寺院跡であり,奈良時代の仏教の展開を考える上でも重要な遺跡である。
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詳細解説
神雄寺跡は、京都府南部木津と奈良の平野部を画する奈良山(ならやま)丘陵の北東端に位置する。標高約90mの天神山(てんじんやま)丘陵と、その南側に広がる標高約50m、平野部との比高約10mの谷部にまたがって伽藍が展開し、周囲を山林に囲まれた地形に立地する山林寺院である。 木津地域は、木津川による水路と、東山道・北陸道による陸路が交差するため、畿内各地を結ぶ交通の要所であった。奈良山丘陵には平城宮・京の主要施設の瓦を生産した奈良山瓦窯跡(ならやまかわらがまあと)が造営されるなど、平城宮・京の造営に深く関わった地域である。 神雄寺跡は、当初、馬場南遺跡(文廻池遺跡)として周知されていたが、平成19年に土地区画整理事業に伴い財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター(当時)によって初めて発掘調査が行われた。平成20年度にかけての2カ年にわたる谷部の発掘調査では、8世紀の中頃の多数の土師器や木簡、仏具など、特殊な遺物の発見が相次いだことにより、当該遺跡を現地保存することとなった。天神山丘陵に遺跡範囲が及ぶ可能性が高いことが判明したため、平成20年度から平成23年度にかけて、木津川市教育委員会が、天神山丘陵における遺跡の範囲と内容を確認する発掘調査を実施した。その結果、天神山丘陵の標高約65m以下の斜面とその南裾に広がる谷部の、東西120m、南北150mの範囲に、流路と建物5棟、井戸1基などが検出された。 丘陵裾部に平坦面を造成して建てられた礎石建物SB301は、東西4.8m、南北4.5mで、内部に一辺3.5m程度の平瓦で外装された須弥壇をもち、塑像天部像片、軒瓦、須恵器、土師器、金属製品、焼壁土が出土した。塑像の出土により、仏像を安置する本堂であると推定されるが、須弥壇と礎石の間の空間が0.5m未満しかなく、仏像を安置した後は建物内には人が入れない構造であるため、外部から建物内部の仏像を礼拝する小型の仏堂であったと考えられる。8世紀中葉に建立され、9世紀初頭までには焼亡した。 この仏堂と考えられるSB301と中心軸を合わせて正面には、東西3間、南北2間の掘立柱建物SB01が建てられており、礼堂と考えられる。この建物は谷部の流路SR01に面して、東面と南面に廂をもっている。流路からは、5000点以上の灯明皿、少なくとも上二句が『万葉集』に所収されたものと一致する歌が書かれた歌木簡、「悔過」「浄」の墨書土器、腰鼓などの楽器、彩釉山水陶器、緑釉及び三彩陶器、墨書土器などが出土した。これらの遺物から、歌の詠唱を伴う儀式や燃灯供養、悔過法要などの仏教儀礼が行われたと考えられる。流路は8世紀中葉には完成し、直後に灯明皿が短期間に、複数回にわたり大量に廃棄され、8世紀末には埋没した。仏堂とみられるSB301から西方向に約30mの位置には、丘陵斜面を平坦に造成して、一辺約1.8mの方一間の礎石建物SB501が建てられた。心礎があるため多重塔もしくは多宝塔と推定される。8世紀後半に建立され、10世紀前半までには焼亡した。 墨書土器には、判読可能なものが113点認められる。その中には、「神雄寺」「神雄」「雄」が13点あり、この他に「神尾寺」「神尾」「神寺」「神」「寺」など、寺名と考えられるものが48点出土している。文献には同名の寺院は認められないものの寺名は「神雄寺」であったと考えられる。そして、読み方は、「神尾」の表記も認められることから、「かみおでら」のほか、「かんのうでら」、「かんのうじ」、「じんゆうじ」、「かむのをでら」が考えられる。 このように、神雄寺は8世紀中葉に創建され、8世紀後葉にかけて伽藍が整備された。その後、8世紀末から9世紀初頭に急速に衰退し、塔のみが存続した後、10世紀前葉までに廃絶した。丘陵斜面を部分的に造成し、小規模な堂塔を配するとともに、礼堂と考えられる建物前面に広い空閑地を有する伽藍は、平地の伽藍の在り方とは大きく異なる。こうした特異な伽藍と、空閑地の前面を流れる流路から出土した遺物からはこの寺で行われた仏教儀礼の内容を推定することができ希有な例である。奈良時代の山林寺院の伽藍を良好な状態でとどめているとともに、山林寺院の立地や伽藍の在り方、そして当時の仏教儀礼を考える上で極めて重要である。よって、史跡に指定し保護を図るものである。
関連情報
指定等後に行った措置
2017.02.09(平成29.02.09)
関連情報
指定等後に行った措置
異動年月日
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2017.02.09(平成29.02.09)
異動種別1
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追加指定
異動種別2
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異動種別3
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異動内容
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