国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
狭山池
ふりがな
:
さやまいけ
狭山池(遠景)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
飛鳥時代~現代
年代
:
西暦
:
面積
:
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
38
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2015.03.10(平成27.03.10)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
六.交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設その他経済・生産活動に関する遺跡
所在都道府県
:
大阪府
所在地(市区町村)
:
大阪府大阪狭山市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
狭山池(遠景)
解説文:
詳細解説
狭山池は,飛鳥時代に築造された灌漑用の溜め池である。大阪府南部の大阪狭山市の中央部に位置し,丘陵間の谷を堰き止め築造された。狭山池の改修に関わる確実な記録は8世紀以降であり,奈良時代の行基(ぎょうき),鎌倉時代初頭の重源(ちょうげん),慶長13年(1608)の片桐且元(かたぎりかつもと)の改修等が知られる。近代以後も継続して利用され,大正末年・昭和初年(1926)及び昭和63年(1988)から平成14年(2002)の二度の改修を経て,現在に至った。平成の改修に伴う発掘調査の結果,敷葉(しきは)工法による飛鳥時代及び奈良時代の堤や,鎌倉時代から近世・近現代までの盛土等を検出し,堤断面(つつみだんめん)層序(そうじょ)と出土木樋(もくひ)等の遺物,文献から改修の履歴が判明した。特に下層東樋(ひがしひ)の木樋(もくひ)は推古天皇24年(616)の伐採と判明し,狭山池築造が飛鳥時代に遡ることが確実となった。また,重源狭山池改修碑(ちょうげんさやまいけかいしゅうひ)も出土している。このように,狭山池は,飛鳥時代に築造され,その後各時代の改修を経ながら今日まで利用が継続している灌漑用溜め池である。発掘調査によって築造の工法,歴史的変遷も明らかとなり,飛鳥時代の木樋(もくひ)をはじめとする貴重な遺物も出土した。我が国古代以来の土木技術の歴史を理解する上で重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
狭山池(遠景)
狭山池(7世紀木樋)
狭山池(慶長13年の取水部))
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狭山池(遠景)
写真一覧
狭山池(7世紀木樋)
写真一覧
狭山池(慶長13年の取水部))
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解説文
狭山池は,飛鳥時代に築造された灌漑用の溜め池である。大阪府南部の大阪狭山市の中央部に位置し,丘陵間の谷を堰き止め築造された。狭山池の改修に関わる確実な記録は8世紀以降であり,奈良時代の行基(ぎょうき),鎌倉時代初頭の重源(ちょうげん),慶長13年(1608)の片桐且元(かたぎりかつもと)の改修等が知られる。近代以後も継続して利用され,大正末年・昭和初年(1926)及び昭和63年(1988)から平成14年(2002)の二度の改修を経て,現在に至った。平成の改修に伴う発掘調査の結果,敷葉(しきは)工法による飛鳥時代及び奈良時代の堤や,鎌倉時代から近世・近現代までの盛土等を検出し,堤断面(つつみだんめん)層序(そうじょ)と出土木樋(もくひ)等の遺物,文献から改修の履歴が判明した。特に下層東樋(ひがしひ)の木樋(もくひ)は推古天皇24年(616)の伐採と判明し,狭山池築造が飛鳥時代に遡ることが確実となった。また,重源狭山池改修碑(ちょうげんさやまいけかいしゅうひ)も出土している。このように,狭山池は,飛鳥時代に築造され,その後各時代の改修を経ながら今日まで利用が継続している灌漑用溜め池である。発掘調査によって築造の工法,歴史的変遷も明らかとなり,飛鳥時代の木樋(もくひ)をはじめとする貴重な遺物も出土した。我が国古代以来の土木技術の歴史を理解する上で重要である。
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詳細解説
狭山池は、飛鳥時代に築造された灌漑用(かんがいよう)の溜(た)め池施設である。大阪府南部の大阪狭山市の中央部に位置し、羽曳野(はびきの)丘陵と陶器山(とうきやま)丘陵に挟まれた谷の左右に形成された段丘間に堤(北堤)を築いて天野川(現・西除川(にしよけかわ))を堰き止め、下流域を潤したものであり、現在の規模は、南北約960m、東西560m、最大貯水量280万立方メートルである。 狭山池は、古く『日本書紀』崇神(すじん)紀、『古事記』垂仁(すいにん)天皇記に築造を伝えるが、確実な記事は奈良時代以降であり、天平3年(731)僧行基(ぎょうき)が狭山池院(さやまいけいん)・尼院(あまいん)を造ったことや(『行基年譜(ぎょうぎねんぷ)』)、天平宝字(てんぴょうほうじ)6年4月(762)、狭山池が決壊し、延べ8万3千人が動員されて修造されたこと(『続日本紀(しょくにほんぎ)』)が知られる。鎌倉時代初頭には僧重源(ちょうげん)による改修、慶長13年(1608)に豊臣秀頼(とよとみひでより)による改修(片桐且元(かたぎりかつもと)奉行)が行われた。江戸時代の管理や改修については池守(いけもり)である『田中家文書』に詳しい。近代以後も継続して利用され、大正末年・昭和初年及び昭和63年から平成14年の二度の改修を経て、現在に至った。 大正末年・昭和初年の改修時には、考古学者末永雅雄(すえながまさお)による調査が行われ、中樋(なかひ)放水部から重源による改修時の石樋(せきひ)に転用された石棺(せっかん)が出土した。平成の改修に際しては、狭山池の総合学術調査が大規模に行われ、発掘調査も実施された。北堤の下層では、敷葉(しきば)工法による飛鳥時代及び奈良時代の堤が遺存し、鎌倉時代から近世・近現代までの盛土等も残っており、堤断面層序と出土木樋等の遺物、文献から改修の履歴が判明した。下層木樋(もくひ)(コウヤマキ材)は年輪年代測定により616年(推古天皇24年)の伐採と判明し、堤北側斜面で見つかった須恵器窯跡の年代とも併せ、狭山池築造が飛鳥時代に遡ることが確認された。北堤の規模は全長約300m、高さ約6m、最大貯水量約81万立方メートルである。行基改修時と考えられる盛土も確認された。天平宝字の改修は、飛鳥時代に比べ2倍に拡幅する大規模な盛土工事が行われたと考えられ、最大貯水量は約170万立方メートルとなっている。また、江戸時代の中樋に使用されていた石材のなかから重源狭山池改修碑が出土し、重源の改修が建仁(けんにん)2年(1202)であることが確認された。同時に出土した石材は、古墳時代の家形石棺(いえがたせっかん)や横口式石槨(よこぐちしきせっかく)の石材を転用したもので、重源の改修時には石樋として利用されていたと推定される。慶長の改修では、西樋・中樋・東樋を新造し、西除(にしよげ)の造り替え、東除(ひがしよげ)の新設、北堤の嵩上げが行われ、最大貯水量約250万立方メートルとなった。このときの西樋・中樋は大正時代まで補修を受けながら継続して利用された。狭山池に洪水調節機能を持たせるため行われた平成の改修では、大幅な腹付けと嵩上げが実施されたが、飛鳥時代から鎌倉時代の堤盛土は保存されることとなった。また、出土した飛鳥時代・奈良時代の木樋、江戸時代の東樋・中樋・西樋、重源狭山池改修碑は平成26年に重要文化財に指定され、隣接する大阪府立狭山池博物館において保存活用が図られている。 このように、狭山池は、飛鳥時代に築造され、その後各時代の改修を経ながら今日まで利用が継続している灌漑用溜め池である。発掘調査によって築造の工法、歴史的変遷も明らかとなり、飛鳥時代の木樋をはじめとする貴重な遺物も出土した。我が国古代以来の土木技術の歴史を理解する上で重要であることから、史跡に指定してその保護を図るものである。