国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
高安千塚古墳群
ふりがな
:
たかやすせんづかこふん
高安千塚古墳群(郡川1号墳石室)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
6世紀~7世紀前半
年代
:
西暦
:
面積
:
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
38
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2015.03.10(平成27.03.10)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
2021.10.11(令和3.10.11)
指定基準
:
一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡
所在都道府県
:
大阪府
所在地(市区町村)
:
大阪府八尾市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
高安千塚古墳群(郡川1号墳石室)
解説文:
詳細解説
大阪府八尾市に位置する高安千塚古墳群は,生駒山系の高安山麓に造られた6世紀代を中心とした大型群集墳で,224基が確認されている。谷筋によって北から大窪(おおくぼ)・山畑(やまたけ)支群,服部川(はっとりがわ)支群,郡川北(こおりがわきた)支群,郡川南(こおりがわみなみ)支群の4つの支群に分けることができる。明治時代にはモースやガウランドによって調査されるなど,日本考古学の創世期に大きな役割を果たした学史的に著名な古墳群でもある。
この古墳群は6世紀から7世紀前半にわたって造営され,最も多く古墳が築造されたのは6世紀後半である。ほぼ全てが円墳で,埋葬施設は横穴式石室であるが,造墓開始期にはドーム状天井の石室が認められるとともに,韓式系(かんしきけい)土器やミニチュア炊飯具(すいはんぐ)といった副葬品の出土など,渡来系(とらいけい)集団との関わりがうかがえる。
こうした状況から,高安千塚古墳群の麓に広がる河内平野に居住した渡来系集団と地域社会との関係をうかがうことができる古墳群であり,我が国の古代国家形成過程を考える上で,欠くことのできない重要な古墳群である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
高安千塚古墳群(郡川1号墳石室)
高安千塚古墳群(服部川7号墳)
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高安千塚古墳群(郡川1号墳石室)
写真一覧
高安千塚古墳群(服部川7号墳)
解説文
大阪府八尾市に位置する高安千塚古墳群は,生駒山系の高安山麓に造られた6世紀代を中心とした大型群集墳で,224基が確認されている。谷筋によって北から大窪(おおくぼ)・山畑(やまたけ)支群,服部川(はっとりがわ)支群,郡川北(こおりがわきた)支群,郡川南(こおりがわみなみ)支群の4つの支群に分けることができる。明治時代にはモースやガウランドによって調査されるなど,日本考古学の創世期に大きな役割を果たした学史的に著名な古墳群でもある。 この古墳群は6世紀から7世紀前半にわたって造営され,最も多く古墳が築造されたのは6世紀後半である。ほぼ全てが円墳で,埋葬施設は横穴式石室であるが,造墓開始期にはドーム状天井の石室が認められるとともに,韓式系(かんしきけい)土器やミニチュア炊飯具(すいはんぐ)といった副葬品の出土など,渡来系(とらいけい)集団との関わりがうかがえる。 こうした状況から,高安千塚古墳群の麓に広がる河内平野に居住した渡来系集団と地域社会との関係をうかがうことができる古墳群であり,我が国の古代国家形成過程を考える上で,欠くことのできない重要な古墳群である。
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詳細解説
大阪府八尾市の東部に位置する高安千塚古墳群は、生駒山系の高安山麓の標高60~180m前後の西側斜面に分布している。 高安千塚古墳群の存在は古くから知られており、延宝7年(1679)の『河内鑑名所記』や享和元年(1801)の『河内名所図会』などに記載がみられる。明治12年(1879)には米国人研究者のE.S.モースが、さらに明治14~21年(1881~1888)には英国人研究者のW.ガウランドが古墳群を調査するなど、いち早く海外にも紹介されている。 昭和35~37年には、白石太一郎が分布調査を行い、昭和41~43年には大阪府教育委員会による分布調査と一部の古墳の墳丘測量と石室実測調査、昭和48~49年には有志による分布調査、昭和61~平成2年には市民団体による分布調査が行われ、古墳群の様相が明らかになっていった。 平成16年度からは、八尾市教育委員会が分布調査を中心とする基礎調査を開始した。また、分布調査と併行して、特徴的な古墳の墳丘測量や石室実測調査、さらには既往出土品の調査を行った。そして、これらの調査成果を総括した『高安千塚古墳群基礎調査総括報告書』を平成23年度に刊行した。 古墳群の総数については、大正時代には565基あったとの記述もあるが、現在は224基が確認されている。谷筋ごとの分布状況から、北から大窪・山畑支群、服部川支群、郡川北支群、郡川南支群の4つの支群に分かれている。このうち、最も多く古墳が築かれているのが服部川支群であり、その基数は132基に達する。墳形はほぼすべてが円墳であり、その直径は8~27mである。埋葬施設については、現在確認されているものはすべて横穴式石室である。その規模は石室長約5~12mと小型であり、片袖式、両袖式、無袖式の3種類がある。玄室形態は長方形のものと方形のものの2系統が認められる。また服部川25号墳と郡川11号墳では、玄室部が2つ連なる二室構造を成す特異な形状の横穴式石室も確認されている。 古墳群は6世紀前半に郡川北支群を除く3つの支群において造営が開始され、大窪・山畑6号墳に代表されるように、片袖式の横穴式石室が構築される。この時期の特徴としては、郡川16号墳のように天井がドーム状を遡る石室が構築され、かつ韓式系土器やミニチュア炊飯具などが副葬品として出土する古墳が造営されるなど、渡来系要素が認められる。一方、古墳群の最盛期である6世紀後半には渡来系要素は希薄になり、横穴式石室については郡川1号墳や服部川2号墳のように両袖式が出現する。また、石材の大型化や石積みの規格が進んでいく傾向も認められる。古墳の造営は7世紀前半で終焉を迎え、この頃には大窪・山畑5号墳のように小型で無袖の横穴式石室が作られるのみとなる。 このように、高安千塚古墳群は畿内有数の大型群集墳であると共に、6世紀に当該地域に居住していた渡来系集団と地域社会との関係が窺えることから、当該地域の歴史的及び社会的状況を考える上で重要な事例である。今回は高安千塚古墳群のうち、条件の整った服部川支群を中心に史跡に指定し、万全の保護を図るものである。 令和3年 追加指定 高安千塚古墳群は、大阪府八尾市の東部に位置する生駒山系の高安山麓の標高60~180m前後の西側斜面に分布する古墳時代後期から終末期の総数230基に及ぶ古墳群である。谷筋ごとの分布状況から、大窪・山畑支群、服部川支群、郡川北支群、郡川南支群の4つの支群に分かれる。ほぼすべての古墳は直径10~30mの円墳で、埋葬施設はほぼすべて石室長約5~12mの横穴式石室である。横穴式石室には、片袖式、両袖式、無袖式があり、玄室形態には長方形と方形を呈す2系統が認められる。このほか、玄室部が2つ連なる二室構造の特異な形状の横穴式石室が確認されている。 古墳群は6世紀前半に郡川北支群を除く3つの支群において造営が開始され、この時期には片袖式の横穴式石室が構築されるが、中には石室天井部がドーム状を呈し、韓式系土器やミニチュア炊飯具などが副葬されるなど、渡来系要素が認められるものもある。6世紀後半には古墳の築造が最盛期を迎え、両袖式の横穴式石室が出現する。石室石材の大型化や石積みの規格化が進んでいくが、前段階に認められた渡来系要素は希薄となる。7世紀前半には小型の無袖式の横穴式石室が構築され、古墳の築造は終焉を迎える。高安千塚古墳群は近畿有数の大型群集墳であると共に、6世紀にこの地域に居住していた渡来系集団と地域社会との関係が窺えることから、古墳時代後期から終末期の歴史的及び社会的状況を考える上で重要な古墳群として、平成27年に史跡として指定された。 今回、追加指定しようとするのは郡川西塚古墳である。この古墳は、高安千塚古墳群の西方約1kmの平野部に築造された前方後円墳である。かつては郡川東塚古墳と並列して存在していたが、郡川東塚古墳はすでに消滅している。郡川西塚古墳は、明治35年の開墾の際に横穴式石室が開口し、神人歌舞画像鏡や変形四(へんけいし)獣(じゅう)鏡(きょう)、銀製垂飾付耳飾などの副葬品が出土した。昭和9年と16年には、梅原(うめはら)末(すえ)治(じ)により石室開口状況の聞き取り調査や測量調査が実施された。その後、本格的な調査は実施されなかったものの、八尾市教育委員会が平成25・26年に郡川西塚古墳と郡川東塚古墳の出土遺物の資料調査を、平成27年から令和元年に郡川西塚古墳の発掘調査と地中レーダー探査を実施した。その結果、郡川西塚古墳は墳長62mの前方後円墳で、墳丘に葺石と埴輪、その周囲に盾形の周濠と周堤を備えることが明らかとなった。埋葬施設はすでに破壊されていたものの、石室の奥壁と側壁の一部が検出され、右片袖式の横穴式石室であることが確認された。朝鮮半島からの搬入品とみられる銀製垂飾付耳飾を含む副葬品や出土遺物等から、築造時期は5世紀末から6世紀初頭と考えられる。これらのことから、郡川西塚古墳は中河内で最初に横穴式石室が導入された前方後円墳で、本古墳の築造を契機として郡川東塚古墳と高安千塚古墳群の造営が開始されると考えられることから、同古墳群の成立を考えるうえで重要である。よって、郡川西塚古墳を高安千塚古墳群に追加指定し、一体のものとして保護を図るものである。 また、あわせて服部川支群のうち条件の整った服部川12号墳、22号墳及び59号墳の一部を追加指定し、保護の万全を図るものである。