国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
袋田の滝及び生瀬滝
ふりがな
:
ふくろだのたきおよびなませだき
袋田の滝及び生瀬滝(袋田の滝・秋)
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種別1
:
名勝
種別2
:
時代
:
年代
:
西暦
:
面積
:
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
39
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2015.03.10(平成27.03.10)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
六.峡谷、爆布、漢流、深淵
所在都道府県
:
茨城県
所在地(市区町村)
:
茨城県久慈郡大子町
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
袋田の滝及び生瀬滝(袋田の滝・秋)
解説文:
詳細解説
関東地方北部の久慈川中流の支流である滝川が,東方の生瀬盆地から西方の低地へと流れ落ちる渓谷の二つの滝である。約1,500万年前の火山角礫岩(かざんかくれきがん)層の大きな節理(せつり)・断層に沿って河水が流れ落ち,西方の凝灰質砂岩層(ぎょうかいしつさがんそう)等を浸食することにより形成された。
袋田の滝は4段から成り,総高78.6m,最大幅50.7m。「四度(よど)の滝」の異称を持ち,弘法大師空海が「四度(四季)」にわたり滝を訪れたことに由来すると伝わる。近世には水戸藩主が領内巡検の途上に訪れ,徳川光圀(みつくに),治紀(はるとし),斉昭(なりあき)も滝の秋景を和歌に詠んだ。近代には,大町桂月(おおまちけいげつ)・長塚節(ながつかたかし)など数多の文人が袋田の滝の風景を詠った詩歌を残し,昭和2年(1927)の「日本二十五勝」にも選ばれた。こうして,袋田の滝は名実ともに日本を代表する名瀑として知られるようになった。また,生瀬滝にはこの地を拓いた大太坊(ダイタンボウ)にまつわる民話が伝わり,長らく地域の人々に親しまれてきた。
濃灰色の岩盤上に白布を引き流したように見える二つの滝は,右岸の屏風岩,左岸の天狗岩とともに緑樹・紅葉に彩られた優秀な風致を誇り,四季を通じて見る者を魅了し多くの芸術作品に描かれてきたことから,観賞上の価値及び学術上の価値は高い。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
袋田の滝及び生瀬滝(袋田の滝・秋)
袋田の滝及び生瀬滝(袋田の滝・夏)
袋田の滝及び生瀬滝(袋田の滝・氷瀑)
袋田の滝及び生瀬滝(生瀬滝・秋)
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袋田の滝及び生瀬滝(袋田の滝・秋)
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袋田の滝及び生瀬滝(生瀬滝・秋)
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解説文
関東地方北部の久慈川中流の支流である滝川が,東方の生瀬盆地から西方の低地へと流れ落ちる渓谷の二つの滝である。約1,500万年前の火山角礫岩(かざんかくれきがん)層の大きな節理(せつり)・断層に沿って河水が流れ落ち,西方の凝灰質砂岩層(ぎょうかいしつさがんそう)等を浸食することにより形成された。 袋田の滝は4段から成り,総高78.6m,最大幅50.7m。「四度(よど)の滝」の異称を持ち,弘法大師空海が「四度(四季)」にわたり滝を訪れたことに由来すると伝わる。近世には水戸藩主が領内巡検の途上に訪れ,徳川光圀(みつくに),治紀(はるとし),斉昭(なりあき)も滝の秋景を和歌に詠んだ。近代には,大町桂月(おおまちけいげつ)・長塚節(ながつかたかし)など数多の文人が袋田の滝の風景を詠った詩歌を残し,昭和2年(1927)の「日本二十五勝」にも選ばれた。こうして,袋田の滝は名実ともに日本を代表する名瀑として知られるようになった。また,生瀬滝にはこの地を拓いた大太坊(ダイタンボウ)にまつわる民話が伝わり,長らく地域の人々に親しまれてきた。 濃灰色の岩盤上に白布を引き流したように見える二つの滝は,右岸の屏風岩,左岸の天狗岩とともに緑樹・紅葉に彩られた優秀な風致を誇り,四季を通じて見る者を魅了し多くの芸術作品に描かれてきたことから,観賞上の価値及び学術上の価値は高い。
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詳細解説
関東地方北部の八溝(やみぞ)山地に水源を発し、鹿島灘(かしまなだ)へと注ぐ久慈川(くじがわ)中流の支流の一つに滝川がある。袋田の滝及び生瀬滝は、滝川が東方の生瀬盆地から西方の低地へと流れ落ちる渓谷に位置する。約1,500万年前の新生代新第三紀中新世に属する固い火山角礫岩層の大きな節理・断層に沿って河川の水が流れ落ち、西方の柔らかい凝灰質砂岩層又は砂質頁岩(けつがん)層を浸食することによりできた2つの滝である。 袋田の滝は4段から成り、総高78.6m、最大幅50.7mに及ぶ。「四度(よど)の滝」の異称を持ち、かつて弘法大師空海が「四度(四季)」にわたって滝を訪れたことに由来すると伝わる。江戸時代には水戸藩主が領内巡検の途上に訪れ、徳川光圀(1628~1701)の「いつの世に つゝみこめけむ 袋田の 布引出す しら糸の瀧」の和歌が伝わるほか、徳川治紀(はるとし)(1773~1816)、徳川斉昭(なりあき)(1800~60)も滝の秋景を和歌に詠んだ。特に、天保5年(1834)4月3日に大子地方を巡検した斉昭は、滝壺の周辺で鹿狩りを楽しみ、「もみち葉を 風にまかせて山姫の しみつをくゝる ふくろ田の瀧」の和歌を残した。 袋田の滝の右岸には、滝と一体の火山角礫岩層から成る総高162.6m、最大幅が119.0mにも及ぶ断崖絶壁が露出し、「屏風岩」と呼ばれている。江戸時代後期の地誌『水府志料(すいふしりょう)』には、滝の右岸上方に伝運慶作の不動明王像を安置した不動堂があり、その欄干から滝を展望できたことから、西行(1118~90)をはじめ多くの文人墨客が訪れたと伝える。また、滝の左岸には、同様に火山角礫岩から成る高さ約8mの岩峰が屹立し、天狗が滝見をしたとの伝説に因んで「天狗岩」の呼称が伝わる。峻厳な断崖絶壁・岩峰に囲まれて流麗に流れ落ちる滝の形姿は、水にまつわる霊地として信仰の対象となったのみならず、観賞を通じて芸術作品を生み出す母胎となった。 近代には、大町桂月(おおまちけいげつ)(1869~1925)及び長塚節(ながつかたかし)(1879~1915)の短歌、徳富蘇峰(とくとみそほう)(1863~1957)の漢詩、飯田蛇笏(いいだだこつ)(1885~1962)の俳句など、数多の文人が袋田の滝の風景を詠った多くの詩歌を残したほか、洋画家の五百城文哉(いおきぶんさい)(1863~1906)は不動堂からの滝の風景を油彩画に描いた。水戸駅から常陸大子駅まで鉄道が開通した昭和2年(1927)には、鐡道省後援の下に大阪毎日新聞社及び東京日日新聞社が一般からの投票に基づき「日本新八景」の選定を行い、併せて「日本二十五勝」の一つに袋田の滝を選んだ。こうして、袋田の滝は名実ともに日本を代表する名瀑として知られるようになった。 袋田の滝の上流約200mに位置する生瀬滝は、袋田の滝と同様に火山角礫岩層の2段の断崖に懸かる総高9.9m、最大幅27.4mの滝である。傾斜する岩面を幾条もの水の流れが数多の白糸を垂らすがごとく伝い落ちるその佇まいは、袋田の滝と比べて小規模だが優れた風致を誇る。生瀬滝にはこの地を拓いた大太坊(ダイタンボウ)にまつわる民話が伝わり、長らく地域の人々に親しまれてきた。 2つの滝の周辺には、アカマツを中心にコナラ・アカシデ・カエデ類などの温帯林が叢生するほか、ミヤマスカシユリ・イワヒバ・カタクリ・サイハイラン等の草本類の種類も豊富である。火山角礫岩の岩上には、明治42年(1909)に新種として発見されたフクロダガヤも生育し、多様な植生に恵まれている。 間近に迫る濃灰色の岩体の粗面に飛沫が広がり、白布を引き流したように見える袋田の滝、小規模だが複数の白糸を垂らしたように河水が岩面を伝い落ちる生瀬滝の形姿は、嶮岨な巌山を彩る緑樹・紅葉とともに景趣に富んでいる。それは、春の新緑から夏の豊かな水量と轟音、秋の紅葉を経て冬の氷結へと至るまで、長い歴史の中で四季を通じて見る者を魅了し、多くの芸術作品の題材となってきた。2つの滝及び渓流の地形・植生が織りなす風致景観の観賞上の価値及び学術上の価値は高く、名勝に指定し保護を図るものである。