国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
旧徳川昭武庭園(戸定邸庭園)
ふりがな
:
きゅうとくがわあきたけていえん(とじょうていえん)
旧徳川昭武庭園(戸定邸表座敷から江戸川方面を望む)
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種別1
:
名勝
種別2
:
時代
:
明治時代
年代
:
西暦
:
面積
:
14351.48 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
39
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2015.03.10(平成27.03.10)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
一.公園、庭園
所在都道府県
:
千葉県
所在地(市区町村)
:
千葉県松戸市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
旧徳川昭武庭園(戸定邸表座敷から江戸川方面を望む)
解説文:
詳細解説
下総台地の最西端にあたり,江戸川とその左岸の低地に臨む松戸の戸定ヶ丘(とじょうがおか)の突端には,徳川幕府第15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)の異母弟で水戸藩最後の第11代藩主であった徳川昭武(1853~1910)の邸宅とその庭園がある。戸定邸と呼ばれた邸宅とその庭園は,西方に広がる江戸川の川面を近景として,その遥か彼方に富士山をも遠望できる立地を活かし,主屋の南の緩やかに起伏する芝生地とその縁辺を彩る一群の植樹,西側の傾斜面の常緑・落葉広葉樹を中心とする豊かな樹叢などから成る風致に富んだ景観構成を持つ。
昭武は隠居した後の明治17年(1884)から同19年に居宅の建築,明治23年頃には庭園を含む敷地全体の造作をそれぞれ完了した。昭武が亡くなった明治43年(1910)以降は次男の武(たけ)定(さだ)が邸宅・庭園を譲り受け,第二次世界大戦後の昭和26年(1951)に松戸市に寄贈した。その間,昭武が手掛けた敷地の主たる地割に大きな変更が加わることはなく,築造当初の庭園の意匠・構成の特質は今日に至るまで良好な状態を維持し続けてきた。
借景を主体とする簡素で平明な意匠・構成は同時代の庭園の特質をよく表しており,芸術上の価値及び日本庭園史における学術上の価値は高い。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
旧徳川昭武庭園(戸定邸表座敷から江戸川方面を望む)
旧徳川昭武庭園(戸定邸と南側の芝生地)
旧徳川昭武庭園(戸定邸表座敷からの眺望)
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旧徳川昭武庭園(戸定邸表座敷から江戸川方面を望む)
写真一覧
旧徳川昭武庭園(戸定邸と南側の芝生地)
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旧徳川昭武庭園(戸定邸表座敷からの眺望)
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解説文
下総台地の最西端にあたり,江戸川とその左岸の低地に臨む松戸の戸定ヶ丘(とじょうがおか)の突端には,徳川幕府第15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)の異母弟で水戸藩最後の第11代藩主であった徳川昭武(1853~1910)の邸宅とその庭園がある。戸定邸と呼ばれた邸宅とその庭園は,西方に広がる江戸川の川面を近景として,その遥か彼方に富士山をも遠望できる立地を活かし,主屋の南の緩やかに起伏する芝生地とその縁辺を彩る一群の植樹,西側の傾斜面の常緑・落葉広葉樹を中心とする豊かな樹叢などから成る風致に富んだ景観構成を持つ。 昭武は隠居した後の明治17年(1884)から同19年に居宅の建築,明治23年頃には庭園を含む敷地全体の造作をそれぞれ完了した。昭武が亡くなった明治43年(1910)以降は次男の武(たけ)定(さだ)が邸宅・庭園を譲り受け,第二次世界大戦後の昭和26年(1951)に松戸市に寄贈した。その間,昭武が手掛けた敷地の主たる地割に大きな変更が加わることはなく,築造当初の庭園の意匠・構成の特質は今日に至るまで良好な状態を維持し続けてきた。 借景を主体とする簡素で平明な意匠・構成は同時代の庭園の特質をよく表しており,芸術上の価値及び日本庭園史における学術上の価値は高い。
詳細解説▶
詳細解説
下総台地の最西端にあたり、江戸川とその左岸の低地に臨む松戸の戸定が丘の突端には、徳川幕府第15代将軍徳川慶喜の異母弟で水戸藩最後の第11代藩主であった徳川昭武(1853~1910)の邸宅とその庭園がある。戸定邸と呼ばれた邸宅とその庭園は、西方に広がる江戸川の川面を近景として、その遥か彼方に富士山をも遠望できる立地を生かし、緩やかに起伏する芝生地とその縁辺を彩る一群の植樹、西側の傾斜面の常緑・落葉広葉樹を中心とする豊かな樹叢などから成る風致に富んだ景観構成を持つ。 昭武が戸定邸の造作に着手したのは、明治9~14年(1876~81)のパリ留学から帰国した翌年のことであった。隠居した後の明治17~19年(1884~86)には居宅の建築、明治20年(1887)に南へ拡張した区域を含め、明治23年(1890)頃には庭園を含む邸宅の敷地全体の造作を、それぞれ完了した。昭武の日記である『戸定備忘録』及び邸内の職員の日誌である『戸定邸日誌』によると、土地の取得及び庭園の樹石の調達には松戸の有力者であった安蒜権左衛門(あんびるごんざえもん)の助力があったこと、植樹及び芝の植え付けには植木屋の与八・銀次郎、庭石の据え付けには石工の宮口平兵衛などの職人が関わったこと、さらには玄関先のヒヨクヒバ及び芝生地東辺のコウヤマキなど現在も残る庭園の古樹は当初からの植樹であったことなどが判る。 隅田河畔の小梅にあった水戸徳川氏の本邸から松戸の戸定邸へと移住した昭武は、近郊の山野・河川において銃猟・魚釣りを楽しんだほか、邸内での作陶及び写真撮影にも積極的に取り組んだ。特に、庭園の南半部の楽焼窯で製作した作品に「戸定焼」と名付けたほか、6年の短期間に邸内及び松戸近郊の風景を撮影した数多の写真を残した。 邸宅の敷地は、建築とその四周の庭園が広がる戸定が丘の上面の平坦部と、その西側の常緑・落葉広葉樹の樹叢に覆われた傾斜面から成る。庭園は概ね5つの部分に分かれ、第1は邸宅の正門である敷地北端の茅葺門から玄関に至る導入路、第2は玄関棟・中座敷棟・表座敷棟・渡り廊下棟などに囲まれた中庭、第3は中座敷棟・奥座敷棟・離れ座敷棟の西側から北側にかけての庭先、第4は表座敷棟の西側から南側にかけて芝生地が広がる主庭、第5は主庭のさらに南側の四阿・楽焼窯などが存在した樹叢の区域である。これらのうち、主庭では表座敷棟から南に向かってなだらかな起伏と緩やかな上り勾配を持つ芝生地が広がり、その南・東・西の三方を高木の植樹及び常緑・落葉広葉樹の樹叢が取り囲む。特に芝生地の縁辺部には、アオギリ・コウヤマキなど作庭当初の植樹がそのまま残っている。芝生地は散策の場であるとともに、テーブル・椅子を用いた飲食、子どもたちのボール遊びの場となった。表座敷棟の客間の床前及び西側の縁先からは、今もなお江戸川とその河畔を近景として、東京の街並みの彼方に富士山の形姿を遠望することができる。 昭武が亡くなった明治43年(1910)以降は次男の武(たけ)定(さだ)が邸宅及び庭園を譲り受け、第二次世界大戦後の昭和26年(1951)に松戸市に寄贈した。その間、昭武が手掛けた敷地の主たる地割に大きな変更が加わることはなく、築造当初の庭園の意匠・構成の特質は今日に至るまで良好な状態を維持し続けてきた。 以上のように、旧徳川昭武庭園(戸定邸庭園)は明治中期に松戸・戸定が丘の上面及び縁辺の立地を生かして築造した庭園で、主屋である表座敷棟の南に広がる芝生地、その周囲を縁取るように連続する植樹、傾斜地を中心に広がる常緑・落葉広葉樹の樹叢、江戸川の河畔及び富士山の借景を主体とする簡素で平明な意匠・構成は同時代の庭園の特質をよく表している。その芸術上の価値及び日本庭園史における学術上の価値は高く、名勝に指定して保護を図るものである。