国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
旧堀田正倫庭園
ふりがな
:
きゅうほったまさともていえん
旧堀田正倫庭園(芝生・雪見灯籠)
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種別1
:
名勝
種別2
:
時代
:
明治時代
年代
:
西暦
:
面積
:
32529.52 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
39
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2015.03.10(平成27.03.10)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
一.公園、庭園
所在都道府県
:
千葉県
所在地(市区町村)
:
千葉県佐倉市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
旧堀田正倫庭園(芝生・雪見灯籠)
解説文:
詳細解説
旧堀田正倫庭園は佐倉城跡(さくらじょうあと)の東方,鹿島(かしま)台地の縁辺部に位置する。明治23年(1890)7月,最後の佐倉藩主であった堀田正倫は旧所領地である佐倉に屋敷を完成させた。
主屋は木造平屋建て(一部2階建て)で,和風建築として貴重かつ重要であり,配置が工夫されている。庭園の設計は著名な庭師である珍珠園(ちんじゅえん)伊藤彦右衛門(いとうひこえもん)が担当し,普請(ふしん)関係文書も残されており貴重である。
主屋の周りには庭木をはじめ燈籠(とうろう)・手水鉢(ちょうずばち)・景石(けいせき)などを設えて和風の庭園とし,建築との調和を図っている。その外側には広い芝生地を設け,園遊会などに用いた。庭園は尾根状台地及び谷津という当該地域の地形を利用することによって眼下の水田及び高崎川,対岸の台地を借景として取り入れた。
旧堀田正倫庭園は明治期に旧藩主が旧所領地に戻って造営した邸宅の庭園であり,主屋とともに造営の実態を知ることができ,芝生地を主体とし対岸の台地などを借景としたことで地形を活かした独特の景観を呈するなど,芸術上の価値及び日本庭園史における学術上の価値は高い。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
旧堀田正倫庭園(芝生・雪見灯籠)
旧堀田正倫庭園(旧堀田邸)
旧堀田正倫庭園(二階からの眺望)
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旧堀田正倫庭園(芝生・雪見灯籠)
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旧堀田正倫庭園(旧堀田邸)
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旧堀田正倫庭園(二階からの眺望)
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解説文
旧堀田正倫庭園は佐倉城跡(さくらじょうあと)の東方,鹿島(かしま)台地の縁辺部に位置する。明治23年(1890)7月,最後の佐倉藩主であった堀田正倫は旧所領地である佐倉に屋敷を完成させた。 主屋は木造平屋建て(一部2階建て)で,和風建築として貴重かつ重要であり,配置が工夫されている。庭園の設計は著名な庭師である珍珠園(ちんじゅえん)伊藤彦右衛門(いとうひこえもん)が担当し,普請(ふしん)関係文書も残されており貴重である。 主屋の周りには庭木をはじめ燈籠(とうろう)・手水鉢(ちょうずばち)・景石(けいせき)などを設えて和風の庭園とし,建築との調和を図っている。その外側には広い芝生地を設け,園遊会などに用いた。庭園は尾根状台地及び谷津という当該地域の地形を利用することによって眼下の水田及び高崎川,対岸の台地を借景として取り入れた。 旧堀田正倫庭園は明治期に旧藩主が旧所領地に戻って造営した邸宅の庭園であり,主屋とともに造営の実態を知ることができ,芝生地を主体とし対岸の台地などを借景としたことで地形を活かした独特の景観を呈するなど,芸術上の価値及び日本庭園史における学術上の価値は高い。
詳細解説▶
詳細解説
旧堀田正倫庭園は佐倉城跡の東方約1km、印旛沼に注ぐ鹿島川の支流高崎川の北岸、標高約30mの鹿島台地の縁辺部に位置する。宮内省は、明治20年(1887)、華族が産業に従事又は家計を維持する場合、地方へ居住することを許可するようになり、東京在住の旧藩主らは旧所領地へ移り住むことができるようになった。最後の佐倉藩主であった堀田正倫は、佐倉における教育と農業の振興に尽力することとし、明治23年(1890)7月に屋敷を完成させ、11月に東京から移住した。敷地の北側に入り口を設け、展望の効く敷地中央南寄りに建物群を配置するとともに、北側を除く建物群の三方に庭園を築造した。 表門は近年復元され、内側左右には土蔵及び当初からの門番所が残る。表門の正面には主屋の玄関が位置する。主屋は木造平屋建て(一部2階建て)で、玄関棟・居間棟・座敷棟・書斎棟・湯殿棟・台所棟から構成されるが、北側にあった台所棟は現在残っていない。明治43年(1910)までに湯殿棟を増築した。採光及び庭園観賞のために建築の配置を工夫しており、これらは接客、主人及び家族の居住、使用人の執務及び居住等の機能を持つなど、藩政時代の大名御殿の性質を受け継ぐもので、概ね当時の状態を保つ和風建築として貴重かつ重要である。 庭園の設計は、後に懐徳館(かいとくかん)庭園(旧加賀藩主前田氏本郷本邸庭園)の造園に関わった東京巣鴨の著名な庭師の珍珠園(ちんじゅえん)伊藤彦右衛門(いとうひこえもん)が担当した。庭園の構想のみならず、建築及び庭園の工事内容を明らかにする普請関係文書が残っており、貴重である。伊藤は庭園を3つに分け、西部には梅林及び茶室、中央部には眼下の高崎川及び水田越しに対岸の台地を借景とする芝生地、東部には竹林や煎茶座敷・六角堂などを計画した。当初の庭園全体の様子は明治27年(1894)発行の銅版画「千葉県佐倉堀田家別邸」に見ることができ、西側と中央部は計画通りに作庭されたが、東側は計画を変更し、佐倉城内にあった鎮守の八幡宮を移し、手水舎(ちょうずしゃ)を設けたことがわかる。 現在、中央部と東部の保存状態は良好で、一部が残る西部と中央部との境には近年復元された茅門が建つ。中央部の主屋の周りには庭木をはじめ燈籠・手水鉢・景石などを設えて和風の庭園とし、建築との調和を図っている。座敷棟の前にはやや大振りの石を加工した手水鉢を据える。書斎棟周りには書斎棟と居間棟及び芝生地とを結ぶ飛び石及び延段を巡らせるなど内庭のように仕上げ、低い網代垣で仕切った。その南側を広い芝生地とし、園遊会などに用いた。起伏のある開放的な芝生地にはマツやサルスベリなどを配し、銅版画に描かれた雪見燈籠が原位置を留める。発掘調査により園路跡の硬化面も確認されている。広い芝生地は、座敷及び主屋周りからの視界を確保し、奥行きを持たせるのに効果的で、庭園は尾根状台地及び谷津という当該地域の地形を巧みに利用することによって眼下の水田及び高崎川、対岸の台地を借景として取り入れた。 明治44年(1911)の正倫没後、邸宅と庭園は堀田家で維持されるが、医療法人の所有を経て、平成9年(1997)には佐倉市の所有となった。この間、庭園の一部は失われたが、正倫が手掛けた庭園の大半は築造当初の意匠・構築を良好な状態で維持してきた。 以上のように、旧堀田正倫庭園は明治20年代以降に旧藩主が旧所領地に戻って造営した邸宅の庭園である。建築の周りを垣で区切り和風の庭園とし、その外側に広い芝生地を設け、対岸の台地などを借景としたことで地形を活かした独特な景観を呈するなど、芸術上の価値が高い。また、当時の史料から庭園の構想及び築造の過程・実態を知ることもでき、学術上の価値も高い。よって、名勝に指定して保護を図るものである。