国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
舘山城跡
ふりがな
:
たてやまじょうあと
舘山城跡(山城虎口)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
安土桃山時代~江戸時代
年代
:
西暦
:
面積
:
63367.29 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
26
特別区分
:
指定年月日
:
2016.03.01(平成28.03.01)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在都道府県
:
山形県
所在地(市区町村)
:
山形県米沢市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
舘山城跡(山城虎口)
解説文:
詳細解説
米沢(よねざわ)盆地西縁の丘陵地の東端,小樽川(こたるがわ)と大樽川(おおたるがわ)の合流地点付近の標高310~330mの丘陵先端に立地する山城と山麓部の館跡からなる城跡。「伊達治家記録(だてじか(け)きろく)」に見える舘山城に比定されている。山城は土塁や堀切で区画された3つの曲輪から成り,全長は約320mである。米沢市教育委員会の発掘調査の結果,伊達家が治世にあたった16世紀代と上杉家の米沢入封直後の17世紀前半の遺構があることが判明した。
山麓部の居館群は米沢市教育委員会による発掘調査で16世紀代の遺構が検出され,館山東館では,掘立柱建物や庭園の可能性のある池状遺構,井戸跡等が検出されている。
舘山城跡は,伊達家が版図を拡大した天正15年(1587)~19年(1591)にかけて政治的・軍事的な拠点となった城館であるとともに,山城と同時期の山麓居館跡が良好な状態で残っている。陸奥(むつの)国(くに)南部の有力大名の城館の構造だけでなく,中世社会の動向を知る上で重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
舘山城跡(山城虎口)
舘山城跡(全景)
舘山城跡(東館調査風景)
舘山城跡(北館)
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舘山城跡(山城虎口)
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舘山城跡(全景)
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舘山城跡(東館調査風景)
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舘山城跡(北館)
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解説文
米沢(よねざわ)盆地西縁の丘陵地の東端,小樽川(こたるがわ)と大樽川(おおたるがわ)の合流地点付近の標高310~330mの丘陵先端に立地する山城と山麓部の館跡からなる城跡。「伊達治家記録(だてじか(け)きろく)」に見える舘山城に比定されている。山城は土塁や堀切で区画された3つの曲輪から成り,全長は約320mである。米沢市教育委員会の発掘調査の結果,伊達家が治世にあたった16世紀代と上杉家の米沢入封直後の17世紀前半の遺構があることが判明した。 山麓部の居館群は米沢市教育委員会による発掘調査で16世紀代の遺構が検出され,館山東館では,掘立柱建物や庭園の可能性のある池状遺構,井戸跡等が検出されている。 舘山城跡は,伊達家が版図を拡大した天正15年(1587)~19年(1591)にかけて政治的・軍事的な拠点となった城館であるとともに,山城と同時期の山麓居館跡が良好な状態で残っている。陸奥(むつの)国(くに)南部の有力大名の城館の構造だけでなく,中世社会の動向を知る上で重要である。
詳細解説▶
詳細解説
舘山城跡(たてやまじょうあと)は、米沢盆地西縁の丘陵地の東端、小樽川と大樽川の合流地点付近の標高310~330mの城山と呼ばれる丘陵先端に立地する山城と山麓部の館跡からなる。元禄元年(1688)頃から仙台藩主伊達家の正史として編纂が始まった『伊達治家記録(だてじか(け)きろく)』にみえる舘山城に比定されている。 舘山城は、元亀(げんき)元年(1570)に伊達家の家臣である新田四郎義直(にったしろうよしなお)の居城として『伊達治家記録』に現れ、天正(てんしょう)12年(1584)には、伊達輝宗が自身の隠居所を舘山で普請し、翌天正13年に完成したとある。また、天正15年には伊達政宗が地割(じわり)・普請したとされ、天正19年(1591)の豊臣秀吉による奥羽仕置(おううしおき)で、政宗が岩出山(いわでやま)へ移るまで米沢城とともに伊達氏の中心的な城のひとつであったと考えられている。伊達氏が米沢を統治していた頃の史料である『伊達(だて)天正日記(てんしょうにっき)』や天正18年2月22日付けの「片倉藤ゑもん宛金掘宛行状(あてがいじょう)案」には、舘山に「たて山御たて(舘山御館)」と「要害」の2つがみえる。 山城は土塁や堀切で区画された3つの曲輪から成り、丘陵先端部の曲輪Ⅰから西端の曲輪Ⅲ西端にある堀切まで、山城の全長は約320mである。周囲の山城が街道を見下ろす高所に位置するなど防御的な側面が強いのに対し、舘山城は比高差の小さい丘陵上にあり、山麓部に数カ所の居館跡を伴うなど、周辺部の城跡とは立地や構造が異なっている。また、米沢市教育委員会の発掘調査の結果、この城は伊達家が治世にあたった16世紀代と上杉家の米沢入封直後の17世紀前半の遺構があることが判明し、山城は上杉家による改変が加えられていることも分かった。 曲輪Ⅰは東西約120m、南北約70mの規模で、北側と西側に土塁を有し、中央南端と北西側に虎口が認められる。中央南端の虎口は山麓部にある館山東館からの登城路に連結している。北西側の虎口は、平成25年度に行った発掘調査の結果、その構造から慶長(けいちょう)年間(1598~1615)後半以降のものと考えられる石垣が検出された。また、西側の土塁は石垣を有していたことが確認されており、北西側の虎口の造営と一体的に造られたことが分かる。これらの造営は、時期からして上杉景勝の命により行われたと考えられるが、通路に石貼りの痕跡が認められないこと、石垣が多量の栗石により埋没していたことなどから、未完成のまま破城が行われたと考えられる。 曲輪Ⅱは、東西約60m、南北約70mの方形の曲輪であり、北側、南側、西側に土塁を有し、北西部に虎口が認められる。西側の土塁は最も規模が大きく、長さ約88m、最大幅26.7m、高さ約5mで、土塁西側の堀切り底との比高差は最大で10mを超える。曲輪Ⅰとの間には、長さ約61m、幅4.5~7.1m、深さ0.6~1.2mの堀切がある。この堀切は曲輪Ⅰ北西側の虎口普請以前は、上幅12.9~13.1m、深さ2.7~3.5m以上の規模であり、北斜面に見られる竪堀と連結していたと考えられる。また、この堀切からは16世紀前半から末頃の遺物が出土しており、埋土の状況や曲輪Ⅰの西側土塁との関係から、上杉家による造営に伴い埋められたと考えられる。 曲輪Ⅲは東西幅約17m、南北幅約56mで、周囲を堀で囲み、西側には土塁を有する。曲輪の北西部分には土橋が認められ、寺院があったと伝承されている西側の平坦地と連結している。また、西側の土塁の南端部には、物見台の可能性がある長軸約16m、短軸約10mの方形の高まりがある。 山麓部の居館は山城との位置関係から、舘山東館、舘山北館、舘山南館と呼んでおり、そのうち舘山東館、舘山北館で行われた米沢市教育委員会による発掘調査で16世紀代の遺構が検出されている。舘山東館では、掘立柱建物や庭園の可能性のある池状遺構、井戸跡等が検出され、舘山北館では、16世紀代を中心とする複数の掘立柱建物が検出されている。これらの遺構は、数時期の変遷が確認される。出土遺物には、土師器内耳(ないじ)鍋(なべ)や擂鉢、国産陶器などがある。 舘山城跡は、伊達家が版図を拡大した天正15~19年にかけて政治的・軍事的な拠点となった城館のひとつであるとともに、山城と同時期の山麓居館跡が良好な状態で残っている。陸奥国南部の有力大名の城館の構造だけでなく、中世社会の動向を知る上で重要な城跡である。また、上杉家による造営が行われていることも確認されており、中世の山城が近世城郭へと改変される状況を知ることもできる。今回は山城と山麓居館のうち条件の整った部分を史跡に指定し、保護を図るものである。