国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
荻外荘(近衞文麿旧宅)
ふりがな
:
てきがいそう(このえふみまろきゅうたく)
荻外荘(建物遠景)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
昭和前期
年代
:
西暦
:
面積
:
6071.69 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
26
特別区分
:
指定年月日
:
2016.03.01(平成28.03.01)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡,八.旧宅、園池その他特に由緒のある地域の類
所在都道府県
:
東京都
所在地(市区町村)
:
東京都杉並区
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
荻外荘(建物遠景)
解説文:
詳細解説
荻外荘は,昭和前期に総理大臣を三度務めた近衞文麿の別邸であり,政治会談や組閣が行われた場所である。JR中央線荻窪駅から南東の閑静な住宅街にあり,大正天皇侍医の入澤達吉が伊東忠太に設計を依頼して昭和2年(1927)に建てた別邸を近衞が昭和12年(1937)に購入した。
近衞は五摂家の筆頭近衞家出身で,貴族院議長などを経て総理大臣となった。昭和15年(1940),第二次内閣の組閣直前に行われたいわゆる荻窪会談は,近衞が外相・陸相・海相に就任予定であった松岡洋右・東條英機・吉田善吾を荻外荘に呼び,ドイツ・イタリアとの連携強化や南方進出などを話し合った。また,第三次内閣では,昭和16年(1941)の日米開戦約2か月前に,東條陸相・及川海相・豊田外相・鈴木企画院総裁を呼んだいわゆる荻外荘会談が行われた。近衞は中国における陸軍の駐兵問題での譲歩を東條に拒否され,日米交渉の糸口を見いだせぬまま内閣総辞職にいたった。そして終戦後の昭和20年(1945)に近衞は荻外荘で自ら命を絶った。
現存の建物としては,居住棟,別棟,蔵がある。近衞が自決した部屋がほぼ当時のまま残っており,保存状態は良好である。玄関や数々の会談の場となった客間棟は豊島区に移築されたものの,昭和期の政治の転換点となる重要な会議が数多く行われた場所として重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
荻外荘(建物遠景)
荻外荘(居住棟)
荻外荘(居室)
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荻外荘(建物遠景)
写真一覧
荻外荘(居住棟)
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荻外荘(居室)
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解説文
荻外荘は,昭和前期に総理大臣を三度務めた近衞文麿の別邸であり,政治会談や組閣が行われた場所である。JR中央線荻窪駅から南東の閑静な住宅街にあり,大正天皇侍医の入澤達吉が伊東忠太に設計を依頼して昭和2年(1927)に建てた別邸を近衞が昭和12年(1937)に購入した。 近衞は五摂家の筆頭近衞家出身で,貴族院議長などを経て総理大臣となった。昭和15年(1940),第二次内閣の組閣直前に行われたいわゆる荻窪会談は,近衞が外相・陸相・海相に就任予定であった松岡洋右・東條英機・吉田善吾を荻外荘に呼び,ドイツ・イタリアとの連携強化や南方進出などを話し合った。また,第三次内閣では,昭和16年(1941)の日米開戦約2か月前に,東條陸相・及川海相・豊田外相・鈴木企画院総裁を呼んだいわゆる荻外荘会談が行われた。近衞は中国における陸軍の駐兵問題での譲歩を東條に拒否され,日米交渉の糸口を見いだせぬまま内閣総辞職にいたった。そして終戦後の昭和20年(1945)に近衞は荻外荘で自ら命を絶った。 現存の建物としては,居住棟,別棟,蔵がある。近衞が自決した部屋がほぼ当時のまま残っており,保存状態は良好である。玄関や数々の会談の場となった客間棟は豊島区に移築されたものの,昭和期の政治の転換点となる重要な会議が数多く行われた場所として重要である。
詳細解説▶
詳細解説
荻外荘は、昭和前期に総理大臣を三度務めた近衞文麿(1891~1945)の別邸であり、政治会談や組閣が行われた場所である。JR中央線荻窪駅から南東へ700mの閑静な住宅街にあり、神田川支流の善福寺川の左岸の低地及び緩やかな斜面を経た台地上にかけて位置する。当時の荻窪は学者等著名人の居住地の一つとして注目されていた。 荻外荘は、大正天皇の侍医であった入澤達吉が伊東忠太に設計を依頼して昭和2年(1927)に別邸として建てた「楓荻凹處(ふうてきおつしょ)」を、近衞が昭和12年(1937)に購入したものである。近衞文麿は五摂家の筆頭近衞家当主篤麿(あつまろ)の子として生まれ、貴族院議員、貴族院議長などを経て総理となった。一度目の総理就任から半年後の昭和12年12月に入居した。本宅は現在の千代田区にあったが、近衞は肺が弱かったため、空気の良いこの場所を別邸として選んだとされており、近衞の健康についての相談相手であった入澤は荻外荘の隣に移り住んだ。また、荻外荘の名は西園寺公望が命名したと言われており、西園寺が揮毫した扁額も残っている。西園寺は京都帝国大学在学中から近衞に期待し、全権であった大正8年(1919)のパリ講和会議に随員として出席させるなどの関係があった。入居直後の12月には、保険社会省問題を荻外荘で協議し、それが厚生省設置につながった。昭和14年(1939)に近衞は、日中戦争の収拾などに行き詰まり総理を辞職するが、翌15年、近衞新党運動が持ち上がると、荻外荘はその重要な舞台となっていった。同年7月、再び総理に就任した際、荻外荘は第二次近衞内閣の組閣本部となり、閣僚の選出は連日新聞で報道された。組閣の過程で7月19日に行われたいわゆる荻窪会談は、近衞が外相・陸相・海相に就任予定であった松岡洋右・東條英機・吉田善吾を荻外荘に呼んで行われたもので、ドイツ・イタリアとの連携強化や東南アジア地域への南方進出など、第二次近衞内閣の政治方針が話し合われ、その結果26日の閣議で「基本国策要綱」が決定された。第一次近衞内閣、平沼内閣、米内内閣の組閣本部は貴族院議長官舎、司法大臣官邸、海軍大臣官邸であったが、第二次近衞内閣はこれらと異にしていた。また、同年8月頃からは大政翼賛会の中央人事についての協議も行われた。外相を松岡から豊田貞次郎に替えた第三次近衞内閣においては、日米開戦約2ヶ月前の昭和16年(1941)10月12日に、東條陸相、及川古志郎海相、豊田外相、鈴木貞一企画院総裁を荻外荘に呼ぶ。いわゆる荻外荘会談といわれるこの会談において、近衞は中国における陸軍の駐兵問題での譲歩を東條に求めたが、東條はこれを拒否し、日米交渉の糸口を見いだせぬまま内閣総辞職にいたった。このように、荻外荘は単に近衞文麿が居住していただけではなく、重要な政治会談の場として利用された。そして終戦後の昭和20年(1945)12月16日、この日は巣鴨拘置所への出頭日であったが、近衞は荻外荘で自ら命を絶った。 その後荻外荘は、近衞家の住まいとされてきたが、平成26年に杉並区の所有となった。なお、昭和22年(1947)から昭和24年まで吉田茂も居住していた。 現存の建物としては、居住棟、別棟、蔵がある。居住棟は木造平屋建て一部2階建てで、昭和20年に近衞が自決した部屋がほぼ当時のまま残っているほか、小屋組みや土台、柱部分に加え、基礎・屋根・軒廻りは必要最小限の改修にとどまっており、保存状態は良好である。昭和13年に居住棟へ隣接する形で長男文隆のために増築された別棟は、主要室となる和室二室に大きな変更は見られない。玄関や数々の会談の場となった客間棟は昭和35年に豊島区に移築されたものの、間取りの変更はなく近衞居住当時の姿を留めている。 続いて敷地全体に目を向けると、北側の台地上に建物があり、その南は善福寺川に続く斜面地となっていて、一段下がった南側はかつて池であった。池は現在埋め立てられているが、杉並区教育委員会による試掘調査が行われ、池の護岸や池の立ち上がりが確認されている。なお、池のあった南側部分は、荻外荘公園として一般に開放されている。 このように、荻外荘は昭和前期に総理大臣を三度務めた近衞文麿の別邸であり、近衞の住生活が反映しているとともに、ドイツ・イタリアとの連携など昭和期の政治の転換点となる重要な会議が数多く行われた場所である。よって、史跡に指定して、その保護を図るものである。