国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
江戸城石垣石丁場跡
ふりがな
:
えどじょういしがきいしちょうばあと
江戸城石垣石丁場跡(熱海市)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
江戸時代前半
年代
:
西暦
:
面積
:
810398.15 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
26
特別区分
:
指定年月日
:
2016.03.01(平成28.03.01)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
六.交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設その他経済・生産活動に関する遺跡
所在都道府県
:
神奈川県
所在地(市区町村)
:
神奈川県小田原市、静岡県熱海市・伊東市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
江戸城石垣石丁場跡(熱海市)
解説文:
詳細解説
伊豆半島とその周辺に分布する,慶長9年(1604)から寛永13年(1636)にかけての,江戸城改修に伴う「公儀御普請(こうぎごふしん)」で用いる石垣の石材を採石,加工した石丁場の跡である。海岸近くか,河川沿いなど水運の便の良い山中に立地しているものが多く,採石と加工を行う山中の作業場,搬出前の石材をとどめ置く仮置き場,石材の搬出路である石曳道(いしびきみち),船積みを行う港などからなる。山中の作業場は,いずれの場所でも石材の割り取りのために矢穴が打たれた石材の散布からその所在を把握することができる。
江戸城を構築する上で,大量に必要とした石垣用石材の産地として,その採石・加工・運搬技術やそれに伴う労働力の編成を知る上で重要であるだけでなく,江戸時代前半における諸大名の編成をはじめとする「公儀御普請」の実態や,その背景にある社会的・政治的動向を知る上で重要である。現在,確認されている170箇所を超える石丁場跡のうち,特に規模が大きく,保存状態が良好であり,採石から搬出までの工程が把握できるものを指定する。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
江戸城石垣石丁場跡(熱海市)
江戸城石垣石丁場跡(小田原市)
江戸城石垣石丁場跡(伊東市 標識石)
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江戸城石垣石丁場跡(熱海市)
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江戸城石垣石丁場跡(小田原市)
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江戸城石垣石丁場跡(伊東市 標識石)
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解説文
伊豆半島とその周辺に分布する,慶長9年(1604)から寛永13年(1636)にかけての,江戸城改修に伴う「公儀御普請(こうぎごふしん)」で用いる石垣の石材を採石,加工した石丁場の跡である。海岸近くか,河川沿いなど水運の便の良い山中に立地しているものが多く,採石と加工を行う山中の作業場,搬出前の石材をとどめ置く仮置き場,石材の搬出路である石曳道(いしびきみち),船積みを行う港などからなる。山中の作業場は,いずれの場所でも石材の割り取りのために矢穴が打たれた石材の散布からその所在を把握することができる。 江戸城を構築する上で,大量に必要とした石垣用石材の産地として,その採石・加工・運搬技術やそれに伴う労働力の編成を知る上で重要であるだけでなく,江戸時代前半における諸大名の編成をはじめとする「公儀御普請」の実態や,その背景にある社会的・政治的動向を知る上で重要である。現在,確認されている170箇所を超える石丁場跡のうち,特に規模が大きく,保存状態が良好であり,採石から搬出までの工程が把握できるものを指定する。
詳細解説▶
詳細解説
江戸城石垣石丁場跡は、江戸幕府が諸大名を動員して行った江戸城改修に伴う「公儀御普請(こうぎごふしん)」で用いる石垣の石材を採石、加工した石丁場である。江戸城改修の普請は、徳川家康が慶長8年(1603)に江戸市街地の普請を諸大名に命じたことを皮切りに、翌9年から慶長12年にかけて、本丸、二の丸をはじめとする城郭の中心部の大改修が行われた。慶長15年から寛永4年(1627)には、西の丸をはじめとする外郭の整備が行われ、寛永6年からは将軍家光の命により外堀などの整備が行われ、寛永13年(1636)におおむね完成した。 石垣に用いる多量の石材は、各地から運ばれたが、石材の大多数は、伊豆半島とその周辺から広く産出する硬質の安山岩が用いられ、現在でも各所に石丁場跡が認められる。石丁場の分布範囲は、相模湾沿いでは北東端が神奈川県小田原市街地を貫流する酒匂(さかわ)川・狩川西岸の丘陵、南端は静岡県下田市高馬(たこうま)で、この間に約130箇所の石丁場跡が認められている。駿河湾沿いでは北西端が清水町徳倉(とくら)、南端が沼津市戸田(へだ)で、この間に45箇所の石丁場跡が認められている。 これらの石丁場において採石を行った大名の名前は、『細川家文書』『山内家史料』など大名家に伝わる史料や伊豆・相模国の地方文書などから判明するものも多い。中でも、『細川家文書』には寛永12年(1635)の「伊豆石場之覚」という史料があり、この当時、細川家が把握していた74箇所の石丁場と採石主体の来歴が記されている。また、史料からは諸大名の編成や石丁場の管理や変遷を知ることができるものもある。 石丁場の立地は、海岸近くか河川沿いなど水運の便のよい山中であることが多く、海岸の安山岩の転石を加工した磯丁場(いそちょうば)も認められる。また、石丁場は、採石と加工を行う山中の作業場、搬出前の石材をとどめ置く仮置き場、石材の搬出路である石曳道(いしびきみち)、船積みを行う港などからなるが、港の多くは現在まで継続的に使用されているため、当時の様子は明らかでない。山中の作業場は、いずれの場所でも石材の割り取りのために矢穴が打たれた石材の散布からその所在を把握することができる。地表に露出した石材はそのまま割り取りの作業を施しているが、一部が埋没している場合は石材の全体を掘り出した後、割り取り作業に取り掛かっているようで、その場合は、掘り出された原石の周辺はクレーター状のくぼみやテラス状の平場を形成している。 採石・加工された石材は、採石地点の下方の斜面上に仮置きされ、中には、目立つ位置に同一の刻印を打つ事例や、沢伝いに近似した大きさの石材を並べ同一の刻印を打つ事例もある。このように、石丁場には、採石から加工、搬出に至るまでのそれぞれの段階で放置された石材が残っており、公儀御普請に伴う石材供給の諸工程が判明する。 神奈川県小田原市では、石丁場と石丁場の可能性がある遺跡が19箇所、確認されているが、そのうち最も保存状況が良好で、大規模なものは早川石丁場である。平成15年度に小田原市教育委員会が行った分布調査では、史跡石垣山南西側の斜面から矢穴及び刻印を有する石材や加工が施された石材などが確認され、平成18年に財団法人かながわ考古学財団が行った発掘調査では、石曳道が検出された。さらに、平成19年度の小田原市教育委員会による分布調査によって、母岩と考えられる転石・自然礫、矢穴・刻印を有する石材が東西1,300m、南北170mの面積約20haの範囲に分布していることが確認された。 この石丁場の特徴は、残存する加工石材の大きさが、小口3尺(0.9m)~4尺(1.2m)、控1間2尺(2.4m)~1間5尺(2.7m)と比較的大きなものが多いことから、江戸城の石垣の中でも、角石や角脇石を切り出した石丁場と推定される。また、採石を行った大名は、史跡石垣山で発見された標識石から肥後国熊本藩加藤家の可能性が指摘されている。一方、早川に本遺跡以外に大規模な石丁場が確認できないことなどから、この石丁場を「伊豆石場之覚」にある「早川新丁場」に比定し、三大納言(徳川義直、徳川頼宣、徳川忠長)の石丁場とする見方もある。 熱海市では30箇所の石丁場跡が確認されている。その中で最も規模が大きく、保存状況が良好な石丁場は中張窪(ちゅうばりくぼ)・瘤木(こぶき)石丁場である。江戸城石垣石丁場跡の中で最も集中して人名刻印(じんめいこくいん)が現存することが、この遺跡の最大の特徴であり、「是ヨリにし 有馬玄蕃 石場 慶長十六年 七月廿一日」、「有馬玄蕃 石場 慶十六」、「羽柴右近」(森忠政)、「浅野紀伊守内(あさのきいのかみのうち) 左衛門佐(さえもんのすけ)」、「慶長十九年」の人名及び年号が刻まれた標識石が確認されている。 また、これらの標識石は各大名の石丁場の境界を示していると考えられる。「有馬玄蕃」の標識石は尾根筋に配置され、この西側では、刻印が確認できず、東側では多種の刻印石が多数、確認されているといった違いが認められる。 伊東市では21箇所の石丁場跡が確認されている。その中で最も規模が大きく、保存状況が良好な石丁場は宇佐美石丁場である。宇佐美石丁場では、複数の大名が採石にあたったことが知られ、『山内家史料』にみえる、慶長18年の採石では黒田筑前守、田中筑後守、長岡越中守、生駒讃岐守とあり、「伊豆石場之覚」には、寛永11年の普請命令が記されており、「先年 立花飛騨、稲葉彦六、伊東修理、森摂津守、木下右衛門」「巳年 松平隠岐、細川越中殿」とある。また、『細川家文書』「伊豆相模之内細川越中守組へ相渡申石場之覚」(寛永12年)には、先年「田中筑後守」、巳ノ年「松平隠岐守殿、松平越中殿」、亥ノ年「大丁場」「有馬左衛門佐、山崎甲斐守、稲葉淡路殿、九鬼大和守」、「小丁場」「立花飛騨守、立花民部少、土川土佐守、平岡石見守、桑山左衛門佐」とある。 さらに石丁場の中には「羽柴越中守石場」(細川忠興)の文字を刻んだ標識石や稲葉家、毛利家の刻印を刻んだ刻印石が確認されている。寛永11年から始まる普請では、幕府は石材調達の大名を組編成としたようで、稲葉家、毛利家は、細川越中組に属していることが知られており、史料から分かる大名の編成と具体的な石丁場との対応関係を知ることができる。 このように江戸城石垣石丁場跡は、徳川家が築城した江戸城を構築する上で、大量に必要とした石垣用石材の産地として、その採石・加工・運搬技術やそれに伴う労働力の編成を知る上で重要であるだけでなく、江戸時代前半における諸大名の編成をはじめとする公儀御普請の実態や、その背景にある社会的・政治的動向を知る上で重要である。よって史跡に指定し保護を図るものである。