国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
馬越長火塚古墳群
ふりがな
:
まごしながひづかこふんぐん
馬越長火塚古墳群(馬越長火塚古墳 横穴式石室)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
6世紀末葉~7世紀前葉
年代
:
西暦
:
面積
:
15683.66 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
26
特別区分
:
指定年月日
:
2016.03.01(平成28.03.01)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡
所在都道府県
:
愛知県
所在地(市区町村)
:
愛知県豊橋市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
馬越長火塚古墳群(馬越長火塚古墳 横穴式石室)
解説文:
詳細解説
愛知県の南東部,豊川(とよがわ)東側の段丘上に所在する馬越長火塚古墳(まごしながひづかこふん),大塚南古墳(おおつかみなみこふん),口明塚南古墳(くちあけづかみなみこふん)からなる古墳群である。馬越長火塚古墳は6世紀末葉の墳長70mの前方後円墳である。後円部には横穴式石室が開口し,全長は17.5m以上で,石室からは高度な技術で作られた鉄地金銅装(てつじこんどうそう)の棘葉形杏葉(きょくようがたぎょうよう)などの馬具,ガラス製トンボ玉などの装身具等が出土した。大塚南古墳は直径19m,口明塚南古墳は直径23mの円墳で,出土した馬具等から前者が7世紀初頭,後者が7世紀前葉に築かれたことが判明している。
馬越長火塚古墳群は6世紀末葉から7世紀前葉まで築造された古墳群で,文献で「穂国(ほのくに)」とされる地域に所在する。馬越長火塚古墳は,同時期において東海屈指の規模を有する前方後円墳で,被葬者は出土した金銅装馬具から大和王権とのかかわりが考えられる。同様の馬具は大塚南古墳と口明塚南古墳でも出土しており,規模は著しく小型化するも大和政権との関わりは継続していたと考えられる。
本古墳群は東海地方の古墳時代後期から終末期にかけて,3世代にわたる首長墓系譜の変遷を追うことができる事例として重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
馬越長火塚古墳群(馬越長火塚古墳 横穴式石室)
馬越長火塚古墳群(全景)
馬越長火塚古墳群(大塚南古墳)トリミング
馬越長火塚古墳群(口明塚南古墳 調査風景)
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馬越長火塚古墳群(馬越長火塚古墳 横穴式石室)
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馬越長火塚古墳群(全景)
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馬越長火塚古墳群(大塚南古墳)トリミング
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馬越長火塚古墳群(口明塚南古墳 調査風景)
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解説文
愛知県の南東部,豊川(とよがわ)東側の段丘上に所在する馬越長火塚古墳(まごしながひづかこふん),大塚南古墳(おおつかみなみこふん),口明塚南古墳(くちあけづかみなみこふん)からなる古墳群である。馬越長火塚古墳は6世紀末葉の墳長70mの前方後円墳である。後円部には横穴式石室が開口し,全長は17.5m以上で,石室からは高度な技術で作られた鉄地金銅装(てつじこんどうそう)の棘葉形杏葉(きょくようがたぎょうよう)などの馬具,ガラス製トンボ玉などの装身具等が出土した。大塚南古墳は直径19m,口明塚南古墳は直径23mの円墳で,出土した馬具等から前者が7世紀初頭,後者が7世紀前葉に築かれたことが判明している。 馬越長火塚古墳群は6世紀末葉から7世紀前葉まで築造された古墳群で,文献で「穂国(ほのくに)」とされる地域に所在する。馬越長火塚古墳は,同時期において東海屈指の規模を有する前方後円墳で,被葬者は出土した金銅装馬具から大和王権とのかかわりが考えられる。同様の馬具は大塚南古墳と口明塚南古墳でも出土しており,規模は著しく小型化するも大和政権との関わりは継続していたと考えられる。 本古墳群は東海地方の古墳時代後期から終末期にかけて,3世代にわたる首長墓系譜の変遷を追うことができる事例として重要である。
詳細解説▶
詳細解説
馬越長火塚古墳群は馬越長火塚古墳(まごしながひづかこふん)、大塚南古墳(おおつかみなみこふん)、口明塚南古墳(くちあけづかみなみこふん)の3基の古墳からなる。これらは愛知県の南東部、豊川(とよがわ)東側の丘陵に囲まれた標高26~28mの段丘上に所在する。この地は、伊勢から東三河を経由し遠江へ抜ける海上・陸上交通において重要な位置にある。 馬越長火塚古墳については、昭和期に在野の研究者や愛知県教育委員会により測量調査や発掘調査が行われ、大規模な石室の存在と馬具などの副葬品の内容から、重要性が知られていた。これらの成果を受け、豊橋市教育委員会では平成17~21年に内容を明らかにするための発掘調査を実施した。その結果、後円部直径31m、高さ5.5m、前方部長31.5m、くびれ部付近の高さ3.5mで、さらにその周辺に認められる葺石を含めると墳長70mの前方後円墳であることが明らかとなった。 後円部には横穴式石室が開口し、前庭、羨道、玄室からなり、羨道と玄室は立柱石で区別される。玄室は立柱石で前室と後室の2室に分かれる複室構造で、三河地域に特徴的な石室構造であり、全長は17.5m以上となる。 石室内からは、馬具・玉類・須恵器などが出土している。馬具には鉄地金銅装(てつじこんどうそう)の棘葉形(きょくようがた)杏葉(ぎょうよう)・辻金具(つじかなぐ)・鞍金具(くらかなぐ)・半球形飾金具(はんきゅうけいかざりかなぐ)などがある。いずれも高度な技術によって作られ、中でも棘葉形杏葉は新羅系の馬具を祖形に、列島で生産された初期のものである。玉類にはガラス製トンボ玉や大型の琥珀製(こはくせい)棗玉(なつめだま)・金銅製(こんどうせい)空玉(うつろだま)がある。トンボ玉では二色のガラスを重ねて巻きつけた重層玉(じゅうそうだま)、斑点文(はんてんもん)の切子玉や線状文(せんじょうもん)と斑点文の複合した丸玉など、国内では例を見ないものがある。以上のほか小型仿製鏡(こがたぼうせいきょう)片や、象嵌装大刀(ぞうがんそうたち)・鉄鏃・弓飾り金具などの武器、鉄製鎌、刀子などの農工具なども出土している。古墳の築造時期は、墳丘上から出土した須恵器や副葬品の型式などから6世紀末葉と考えられる。また、石室の前庭からは100点以上の須恵器が出土した。これらは7世紀中葉に比定され、古墳築造後、半世紀ほど後の祭祀に関わるものとみなされる。これらの出土品については平成24年9月6日、重要文化財に指定された。 豊橋市教育委員会は、大塚南古墳については平成20年に、口明塚南古墳については平成21年に、それぞれ範囲及び内容を確認するための発掘調査を実施した。いずれも円墳で、大塚南古墳は直径19m、口明塚南古墳は直径23mであり、墳丘中央には横穴式石室が遺存している。副葬品には、前者から鉄地(てつぢ)金銅装花形鏡板付轡(こんどうそうはながたかがみいたつきくつわ)と雲珠(うず)・辻金具、後者から金銅製毛彫り馬具(こんどうせいけぼりばぐ)片があり、これら馬具から前者が7世紀初頭、後者が7世紀前葉に築かれたと考えられる。 以上のように、馬越長火塚古墳群は6世紀末葉から7世紀前葉まで築造された古墳群で、文献で「穂国」とされる地域に所在する。馬越長火塚古墳は、同時期において東海屈指の規模を有する前方後円墳で、その被葬者は、金銅装馬具から大和王権との関わりが認められるとともに、三河地方独自の形態をとる横穴式石室から在地的性格もあったと考えられる。さらに終末期には、大塚南古墳と口明塚南古墳で金銅装馬具が副葬されており、墳丘規模は著しく小型化するも大和政権との関わりは継続していたと考えられる。 このように、本古墳群は東海地方の古墳時代後期から終末期の3世代にわたる首長墓系譜の変遷を追うことができる事例として重要である。よって史跡に指定し、保護を図るものである。